山本宗補
フィリピン 被災山中に環った先住民
信濃毎日新聞文化面 2004年11月5日掲載
浅間山の南麓(なんろく)に生まれ、浅間の噴煙を眺めて育った私には、子どものころ見た壮大な花火のような夜間の噴火の光景が脳裏に刻まれている。どこにいても浅間山の活動が気になる。それは私の中に、“浅間山への帰属意識”があるからだと思う。
十三年前、フィリピンのピナトゥボ火山が大噴火し、山麓で暮らしていた先住民のアエタ民族が母なる大地を追われた。ピナトゥボ山に深い帰属意識を持つ彼らに親近感を覚えながら取材し、苦難に満ちた彼らの生に触れて、家族の幸せとは、尊厳のある生き方とは何かを考えさせられた。
ピナトゥボ火山の噴火は実に五百年ぶりで、二十世紀最大級の爆発となった。山頂部は吹っ飛び、山麓は膨大な噴出物や火山灰の堆積で半砂漠化した。火口から半径十五キロ圏内は壊滅状態。上空からは灰白色の氷河に覆われたように見えた。周囲の森は熱風で枯れた。
アエタ民族は不運だった。「死者の霊が還(かえ)ってゆく神の山」と彼らが畏敬していたピナトゥボ山の山麓で、焼き畑や狩猟に依存して生きていたからだ。
低地の劣悪な生活環境の避難キャンプでは、麻疹(はしか)の蔓延で子どもの病死が相次いだ。テント小屋の一つには、病死した十三歳の男の子が横たわり、衰弱しきった四人の女の子と、放心状態の父親がいた。翌日、娘四人は病院に担ぎ込まれて点滴を受け、最悪の事態は回避された。
父親のティップロックは三十歳前後で、避難してまもなく彼の父が病死し、男の子三人と妊娠後期の妻も麻疹や下痢で次々と死んだ。「あの時は気が狂いそうだった」と後で彼は述懐した。実兄も子ども四人を失った。
政府が用意した再定住地に移り住んだものの農地はなく、生活再建は遅れた。「現金がなければ生活できない」と実兄一家はいち早くピナトゥボ山中に還った。しかしティップロックは「子どもに教育を与えたい」と再定住地にとどまった。
次女は父親の期待を担って中学に進級したが、勉強についていけなくなって中退し、結婚。初産は父親が助産婦役をつとめた。長女は首都マニラで安月給のメードの仕事につき、わずかな現金を仕送りして家族を支えた。小学生だった末娘はメードの仕事を見つけて急に家出した。後で「お金が欲しかった」と父に謝った。噴火から十年後にティップロックは再婚、娘たちに歓迎された。長女はその後、定職を持たない男と式を挙げないまま結婚し、赤ちゃんを産んだ。
昨年、再定住地のティップロック一家を訪ねると、家は廃屋状態で、一家はピナトゥボ山中に還ったと知った。植生が回復し始める中、実兄や従兄弟(いとこ)たちが火山灰をかきわけて開墾し、食料を自給自足する生活を取り戻しつつある山中だ。男たちがTシャツと短パンを脱ぎ捨て、昔ながらの褌(ふんどし)一つの姿で過ごす気ままな生活が復活していた。
再定住地での生活を見限ったティップロックの決意を左右したのは、ピナトゥボの大地への深い愛着と親族たちとの絆であり、先住民としての「尊厳の回復」でもあった。それは天災の被害者だけでなく、世界各地の紛争地で生きる人びとが共有する心情なのだと思う。