豊田直巳
離散パレスチナ人 帰れぬ故郷 孫に託された鍵
信濃毎日新聞文化面 2004年12月3日掲載
十一月十一日、世界の耳目が集まる中、アラファト議長が亡くなった。彼はイスラエルやアメリカから「テロリストの親玉」呼ばわりされたが、何度も死地を潜(くぐ)り抜けた不死鳥として、パレスチナ人だけでなくアラブ諸国の人々にとっても、カリスマ性を備えた英雄であり、国家を持たないパレスチナ人のシンボルであった。議長の周囲の指導者たちを次々と暗殺してきたイスラエルも、アラファトを殺すことはできなかった。
そのアラファトが永遠の眠りについたことで、一時代が終わったと世界の多くの人々が思っているに違いない。そして多くの識者が、アラファト後のパレスチナを語る。
しかし、世界の目がパレスチナの「自治区」にばかり注がれる中で、忘れてはならないことがある。それは、パレスチナ自治区であるヨルダン川西岸とガザ地区以外の土地に暮らす多くの「ディアスポラ(離散)のパレスチナ人たち」の存在だ。
自治区外のアラブ諸国等に暮らすパレスチナ人は約六百万人。これは全パレスチナ人の三分の二にあたる。このうち二百五十万人が、一九四八年のイスラエル建国によってパレスチナ人がその土地を奪われて以来半世紀余を経た現在も、難民キャンプでの生活を余儀なくされている。
アラファトは一九九三年のイスラエルとの「暫定自治原則宣言」(オスロ合意)後、パレスチナ自治政府の「プレジデント」(大統領)に収まった。しかし彼は、パレスチナ自治区の人々だけでなく、全パレスチナ人を代表するPLO(パレスチナ解放機構)の議長でもあったのだ。
確かにアラファトは、イスラエルとの交渉で、パレスチナの地への「帰還の権利」を譲り渡したわけではない。しかし、帰還問題をあいまいにしたままオスロ合意が成立したことで、自治区外に暮らすパレスチナ人たちは、自分たちがPLOから、そしてアラファトから見捨てられたように感じていたこともまた事実である。
「“アラファト共和国”(自治区)になんか行かないよ。だって私の故郷はヨルダン川西岸でもガザ地区でもないのだから」。一九九五年、オスロ合意後のパレスチナ難民たちの取材で、五年ぶりに再会したマタル老人は声を荒げた。
一九四八年、現在の地図ではイスラエル領内となっている港町アッカの郊外で農業を営んでいた彼は、数日の戦闘が終わったら戻るつもりで、鍵を掛けて自宅を出た。しかし、以来半世紀、彼はレバノン南部のラシャディエ難民キャンプで、わずか数十キロしか離れていない家に一度として戻ることができないまま、暮らし続けてきたのだ。
帰郷の夢はついにかなわず、マタル老人は今、キャンプに隣接した、地中海を望む墓地に眠る。キャンプには妻と、そこで育った息子たちの家族が残されたが、左官職人の次男にも、歯科医師の四男にも仕事はない。長男の家族はリビアに、三男も家族を連れてアラブ首長国連邦に出稼ぎに出たままだ。
庭にオリーブの木が植えられていたというマタル老人の家はもう、その跡形さえとどめていないのかもしれない。しかし、その家の鍵は、彼の孫たちが今も大切にあずかっている。