★いま世界で(44) 

フィリピン 被災山中に環った先住民

                       山本宗補 2004年11月5日掲載

 浅間山の南麓(なんろく)に生まれ、浅間の噴煙を眺めて育った私には、子どものころ見た壮大な花火のような夜間の噴火の光景が脳裏に刻まれている。どこにいても浅間山の活動が気になる。それは私の中に、“浅間山への帰属意識”があるからだと思う。

 十三年前、フィリピンのピナトゥボ火山が大噴火し、山麓で暮らしていた先住民のアエタ民族が母なる大地を追われた。ピナトゥボ山に深い帰属意識を持つ彼らに親近感を覚えながら取材し、苦難に満ちた彼らの生に触れて、家族の幸せとは、尊厳のある生き方とは何かを考えさせられた。

 ピナトゥボ火山の噴火は実に五百年ぶりで、二十世紀最大級の爆発となった。山頂部は吹っ飛び、山麓は膨大な噴出物や火山灰の堆積で半砂漠化した。火口から半径十五キロ圏内は壊滅状態。上空からは灰白色の氷河に覆われたように見えた。周囲の森は熱風で枯れた。

 アエタ民族は不運だった。「死者の霊が還(かえ)ってゆく神の山」と彼らが畏敬していたピナトゥボ山の山麓で、焼き畑や狩猟に依存して生きていたからだ。

 低地の劣悪な生活環境の避難キャンプでは、麻疹(はしか)の蔓延で子どもの病死が相次いだ。テント小屋の一つには、病死した十三歳の男の子が横たわり、衰弱しきった四人の女の子と、放心状態の父親がいた。翌日、娘四人は病院に担ぎ込まれて点滴を受け、最悪の事態は回避された。

 父親のティップロックは三十歳前後で、避難してまもなく彼の父が病死し、男の子三人と妊娠後期の妻も麻疹や下痢で次々と死んだ。「あの時は気が狂いそうだった」と後で彼は述懐した。実兄も子ども四人を失った。

 政府が用意した再定住地に移り住んだものの農地はなく、生活再建は遅れた。「現金がなければ生活できない」と実兄一家はいち早くピナトゥボ山中に還った。しかしティップロックは「子どもに教育を与えたい」と再定住地にとどまった。

 次女は父親の期待を担って中学に進級したが、勉強についていけなくなって中退し、結婚。初産は父親が助産婦役をつとめた。長女は首都マニラで安月給のメードの仕事につき、わずかな現金を仕送りして家族を支えた。小学生だった末娘はメードの仕事を見つけて急に家出した。後で「お金が欲しかった」と父に謝った。噴火から十年後にティップロックは再婚、娘たちに歓迎された。長女はその後、定職を持たない男と式を挙げないまま結婚し、赤ちゃんを産んだ。

 昨年、再定住地のティップロック一家を訪ねると、家は廃屋状態で、一家はピナトゥボ山中に還ったと知った。植生が回復し始める中、実兄や従兄弟(いとこ)たちが火山灰をかきわけて開墾し、食料を自給自足する生活を取り戻しつつある山中だ。男たちがTシャツと短パンを脱ぎ捨て、昔ながらの褌(ふんどし)一つの姿で過ごす気ままな生活が復活していた。

 再定住地での生活を見限ったティップロックの決意を左右したのは、ピナトゥボの大地への深い愛着と親族たちとの絆であり、先住民としての「尊厳の回復」でもあった。それは天災の被害者だけでなく、世界各地の紛争地で生きる人びとが共有する心情なのだと思う。

★いま世界で(31) 

フィリピン 回避されぬ戦争 避難民の貧窮

                       山本宗補 2004年8月6日掲載

 イラクで人質になっていたフィリピン人のアンへロさんが解放され家族と再会した。日本人の人質解放の時と同様に喜びたい。彼らが戦火のイラクに出かけた理由は異なるが、極限に達した心痛から解放された当事者の喜びに国の違いはない。

 5月の大統領選挙で辛くも信任されたフィリピンのアロヨ大統領は、小泉首相とは正反対に武装勢力の要求に応じ、人質解放のためフィリピン軍をイラクから早期に撤退させた。「国際社会の評価を得ることよりも、あなた達の命の方が尊いのです。大統領はあなたの友人です」。アンヘロさん帰国直後に行われた、施政方針演説で、アロヨ大統領は自画自賛した。

 しかし、本当に「大統領は友人」なのだろうか。フィリピンでは、土地や権力が一部の裕福層に集中する社会構造に根ざした貧富の格差が歴然で、年間90万人の「アンヘロさん」が海外での出稼ぎを選択する要因となっている。政府の腐敗に加え、強引な反政府武装勢力対策が政情不安を招き、それが経済成長の足かせにもなっている。

 アロヨ大統領は、米国の「反テロ戦争」を積極的に支持してきた。一昨年には、米政府がイスラムテロ組織と認定した「アブサヤフ」の掃討を名目に、フィリピン南部で米比合同軍事訓練が実施された。それは、30年に渡り分離独立を求めて武装闘争を続けるモロ・イスラム解放戦線(MILF)をいたずらに刺激し、反米感情を煽(あお)った。

 米軍によるイラク攻撃開始前の昨年2月には、国軍がMILFに対し本格的な掃討作戦を唐突に開始した。停戦は反古(ほご)にされ、国軍とMILFとの戦火はミンダナオ島各地に飛び火。一時は避難民が30万人を超えるほど事態は悪化した。

 避難民救援の中心的役割を担ったカトリックのバート神父は嘆いた。「アロヨ大統領はリーダーとして戦争を回避すべきなのに、憐れみに欠けている」

 ミンダナオ島中部には大小様々な避難民キャンプが林立し、あり合わせの布やビニール袋を屋根や壁代わりにしたテント小屋が立ち並んだ。繰り返される内戦のためか、人々は避難生活慣れしているようでもあった。

 「30年間で20回は避難した。いかに素早く植え、収穫し、逃げるかを知っているさ」。こう語った男性は年齢を57歳だと言ったが、70歳の老人顔をしていた。

 集落は無人となり、電線は引き倒され、トウモロコシ畑は国軍の装甲車などで踏み倒された。鉄筋構造の穀物倉庫は空軍の大型爆弾で破壊され、直径8メートルほどの大きな穴が空いていた。

 ムスリム住民の生活基盤を破壊し、教育の機会を奪う軍事作戦は、避難民の生活を貧窮化させる。あたかも、それ自体が狙いであるかのように。

 国民の生命と財産の保護を口にする為政者の見せかけだけの意志。彼らは、戦争を回避しようとはしない。

★いま世界で(17) 

インド 仏教に改宗 カースト制と闘う

                       山本宗補 2004年4月30日掲載

 10億人。世界第2の人口を持つインドでいま、不可触民や下層階級の人々がヒンドゥー教を捨て、続々と仏教に改宗している。仏教徒人口は5000万人をこえたようだ。最近改宗した人たちは異口同音に「自尊心の回復」を改宗の恩恵に挙げる。

 インドはブラーミン(バラモン)を頂点とするヒンドゥー社会。カースト外に位置付けられた最下層の不可触民は、カースト・ヒンドゥー(カーストに属するヒンドゥー教徒)から「触れるな、近寄るな、視(み)るな」と動物以下に扱われ、共同井戸の使用さえ禁止されてきた。独立後のインド憲法で不可触民制は廃止されたが、カースト制の弊害は根深い。

 首都デリーに住むプレムさん(38)は3年前に仏教徒に帰依した。不可触民出身だが、大卒の公務員で、家族は妻と子ども2人。「友人からアンベードカル博士のことを教えられ、正義と平等、友愛を説く仏教に目を開かれた」のが改宗の理由だという。

 「初めは身分を知られたくないのでおどおどしていたが、今は自分に自信が持て、自尊心もあります。カースト・ヒンドゥーの同僚たちは内心私を見下していますが。ヒンドゥーの祭りなどに使っていたお金などを教育費に回し、経済的にも楽になりました」

 アンベードカル博士とは、不可触民出身ながら独立インドの初代法務大臣を務め、平等を保障したインド憲法の起草者だ。博士は不可触民同胞の解放のため生涯をヒンドゥー支配層と闘い、国民から「独立の父」と英雄視されるガンジーと激しく対立した。ガンジーが不可触民を「ハリジャン(神の子)」と呼びながら、実はカースト制を守ることに固執したからだ。

 最下層の人々の権利を無視し続ける支配者層に絶望した博士は、ヒンドゥー教がインドの発展と民主化を阻んでいると見る限り、1956年、50万人の不可触民とともに仏教に集団改宗した。仏教を選んだのは、インド古来の文化であり、ブッダの説く自由、平等、友愛の精神は民主主義に欠かせない生活原理だと考えたからだ。

 改宗で生まれ変わった人々は博士を「アンベードガル菩薩」と呼び、ブッダと同格に信仰する。だが、集団改宗から2ヶ月後に博士は急逝し、仏教徒は指導者を失った。そこへ現れたのが日本人僧の佐々井秀嶺師(68)だった。

 岡山県出身の佐々井師は、36年前にインドに渡ってから1度も帰国せず、博士の改宗の地ナグプールを基盤に仏教再興に奔走してきた。「僧侶は社会事業家、改革者。僧衣はユニフォームだ」と断言する佐々井師を、信者や僧侶は「バンテージ・ササイ」(佐々井上人)と親しみを込めて呼び、師の足下に額づく。

 14年前、インドの市民権を得てからは、聖地ブッダガヤの大菩提寺の管理権をヒンドゥー組織から取り戻す「返還闘争」に着手。全国の仏教徒の先頭に立ち、ヒンドゥー支配層に対して象徴的な闘いを挑んできた。「政治家、会社社長、医師、弁護士など仏教徒があらゆる分野で躍進しているが、まだ少数派だ」。佐々井師に受け継がれたアンベードカル博士の遺志は社会変革の大きなうねりを生み出している。

★いま世界で(5)

ビルマ・カレン州 民族解放 55年目の「停戦合意」

                         山本宗補 2004年2月6日掲載 

 アジアの片隅で過去55年間に渡って続いた、おそらく世界で最も古い民族解放戦線が終わりの時を迎えるかもしれない。ビルマ(ミャンマー)の軍事政権と反政府武装組織のカレン民族同盟(KNU)が1月20日、仮の停戦合意に至ったのだ。
 首都ラングーン(ヤンゴン)での停戦交渉でKNUを代表したのはボーミャ将軍。会うたびに「国軍を絶対に信用しない」と話していたカレン民族解放闘争の顔だ。軍事政権からは「テロリストの親玉」と中傷されてきた。交渉中にボーミャ将軍は77歳の誕生日を迎え、軍政に祝ってもらったが、両者が簡単に和解できるとは思えない。
 カレン民族が武装蜂起したのは、ビルマが英国から独立して間もない1949年1月31日。中央政府に自決権と民族の平等を求めたのが始まりだ。ほとんどの少数民族武装組織が軍政と停戦する一方で、抵抗を続けた、最大の武装組織がKNUであり、国軍にとっては「最大の敵」だった。
 15年前、タイ・ビルマ国境地帯にあるKNU総司令部で初めてボーミャ将軍に会った
頃、民主化デモが国軍や治安警察によって無聊弾圧され、数千人のビルマ人学生がKNU解放区に逃れた。それ以来、カレン民族の解放闘争は国外で活動する民主化勢力をサポートし、共闘する新たな使命を得た。民主化運動指導者のアウンサンスーチーが目指す民主的な中央政府が樹立されない限り、少数民族の権利回復は望めないからだ。
 KNUは外国からの円状なしで闘争を続け、一時はタイ国境の密輸貿易の権益を握り広範囲に解放区を維持した。だが、軍政は圧倒的な武力でKNUの国境密輸貿易の拠点を次々に攻略、KNUの支持基盤である農民を標的にする作戦を展開した。
 米や家畜などの略奪、村の焼き払い、国軍前線部隊用ポーターの強制徴用、女性のレイプなどは日常茶飯事。農民は村単位で、柵で囲われた強制収容村に移住させたられた。国軍による越境攻撃で焼き払われたタイ領内の難民キャンプで、呆然と立ち尽くしていた母子の姿が記憶に新しい。
 9年前、KNU総司令部が攻略された頃から、若い世代に 気分が顕著となった。いま、カレン州山中を10万人を越す、国内避難民が逃げ惑い、大量内の難民キャンプで
は12万人が暮らす。「停戦合意」を民主化へのプロセスと国際社会に宣伝する軍政に対し、「軍政のトリックだと思うものももいる。停戦協定に署名するまでは警戒が必要」と、アルKNU情報担当者は打ち明ける。
 停戦と引き換えに政治的な権利を軍政が約束した例はない。
 開放闘争55周年を目前に成立した「停戦」。だが、避難民の安全さえ保障されてはいない。