★いま世界で(51)

イラク 訴える手段もたない死者たち

                          綿井健陽   2004年12月24日

 二〇〇四年三月十八日y夜、UAE(アラブ首長国連邦)の衛生テレビ局「アル・アラビーヤ」の記者とカメラマンが、バグダット市内にある米軍検問所で米兵と話をしていた。そして、彼らが百メートルほど後ろに停めてあった車に戻った直後、検問所に別の車が突入して炎上する。しかし、その米兵はその車には発砲せず、つい五分ほど前に直に会っている記者たちの車に向かって何度も発砲を繰り返した。助手席に乗っていた記者のアリ・アルカティ−ブ(三四)と、後部座席にいたカメラマンのアリ・アブドラ・アジズさん(三五)が死亡した。アルカティ−ブさんは、三ヶ月前に結婚したばかり。アブドラ・アジズさんの妻は妊娠中だった。

 銃撃された車を運転していたアフマド・アブドルさん(四一)によると、後頭部を撃たれたアルカティ−ブさんは、「なぜ、あの米兵たちは俺たちを撃ったんだ」と、亡くなる直前に助手席でアフマドさんに訴えた。その言葉が最後だった。奇跡的に軽症で済んだアフマドさんは、私の取材に対してこう言った。

 「私たちは一年前からずっと一緒にクルーを組んで取材してきた。そしていま、私は生きていて、彼らは死んだ。彼らの遺影を見ていると、私が彼らを殺したのではないかと思う...」

 生き残ったものが罪の意識を背負い、本来罪を背負わなければならない者が、何も問われない。これが占領下にあるイラク社会の不条理だ。

 「アル・アラビーヤ」テレビのバグダッド支局は、総勢六十人のスタッフのうち、一人がエジプト人、二人がパレスチナ人、残りすべてイラク人だ。九月十二日には、またしても同局のマーゼン・アルトメイシ記者が、米軍ヘリの砲撃を受けて死亡。さらに、十月三十日には、同支局前での爆弾事件でスタッフ七人が死亡した。

 同局のイラク人女性リポーター、ハディール・アルルバイさん(三六)は、相次ぐ同僚の死の中、ジャーナリストの取材活動をこう表現する。

「ジャーナリストの仕事は、常に火の輪の中に入っていくようなものだ。勇気がなければ、火の輪もくぐれないし、その先にある真実もつかめない。真実を伝えるのが我々の仕事だ。いかなる場所であっても、どんな取材対象でも、ジャーナリストの仕事は常に危険が伴う。

私たちは、直接火の中に入っていくことはできない。ときに、その火から一時的に離れることもある。ジャーナリストは危険を競っているのではない。だがジャーナリストは、あらゆる方法を尽くして真実をつかもうとする。私たちは誰のために働いているのか。それは真実のためです」

 IFJ(国際ジャーナリスト連盟)は、今年世界で取材中に殺害されたジャーナリストが百人を超えたと発表した。そして、その背後には、彼らが伝えようとした無数の人間たちの死が累々と横たわっている。死者たちは訴える手段はもたない。それらの死を誰かが伝えない限り、そこで何が起きているのか、誰も知ることはできない。

★いま世界で(38)

東ティモール 戦争の時代へ「遺言」の映像

                          綿井健陽   2004年9月24日

 二〇〇二年五月二十日、二十一世紀に入って最初の新たな独立国がアジアに誕生した。「東ティモール民主共和国」。四百年に及ぶポルトガルの植民地支配の後、一九七五年にインドネシアが軍事侵攻して武力併合。独立運動の弾圧と虐殺の歴史を刻んだ末、九九年に行なわれた住民投票で独立が決まる。しかし、その後の独立反対派民兵とインドネシア国軍による破壊と虐殺行為で騒乱状態に陥り、多国籍軍の介入、国連の暫定統治を経て、ようやく悲願の独立を達成したのだ。

 その東ティモールへの動乱の軌跡を、一人の若いジャーナリストが取材していた。アグス・ムリアワン。彼は七三年、インドネシアのバリ島に生まれた。両親は共に中国系で、高校時代から日本に興味を抱き、九六年には、東京大学に一年間留学した。九八年のスハルト大統領退陣をめぐる暴動から取材活動を始め、その後フリージャーナリスト集団「アジアプレス」の一員となった。九九年、私は彼とともに延べ三ヶ月に渡り、ずっと一緒に現地で取材していた。

 「その日」から約一年後。彼の「最期の現場」は、苔(こけ)のようにうっすらと山々を包みおおう草木が黄金色に輝いて、長い乾期の終わりを告げていた。小さな島の四方を囲む、透き通った海には穏やかな白波が打ち寄せる。高く連なる椰子(やし)の木々の間から聞こえる小鳥のさえずりは、いつも変ることがない。海岸沿いのコンクリート道路脇の水田の稲穂の列に、傾いた西日の照り返しが、どこまでも輝いていた。きっと「その日」だって、いつもと同じような風景が彼の眼前に広がっていただろう。

 九九年九月二十五日、東ティモール東部の川沿いの路上で、何発かの銃弾が放たれた。夕闇迫る静かな丘に響いた銃声は、すぐに深い森の奥に吸い込まれて消えたに違いない。車に同乗していた神父や修道女、七人とともに、アグス・ムリアワンは、独立反対派民兵に殺害された。ナタやナイフで全身を傷つけられた遺体は車に押し込められ、彼が片時も離さなかったビデオカメラも一緒に、川に投げ落とされた。

 アグスが当時撮影していたビデオテープは、殺害されるおよそ十五分前で止まっている。殺害現場の川から引き上げられたかれのビデオカメラに残っていたテープの最後の映像は、放火された村役場の建物だった。映し出されたその白い壁には、黒い墨のような文字がインドネシア語で書かれている。

 「DARAH AKAN TETAP MENGALIR」(血はいつまでも流れつづける)

 インドネシア国軍か民兵が、撤去間際に書きなぐったその落書きは、住民投票後の東ティモールでの「最後の殺戮(さつりく)」の予告だった。そしてそれは、冷戦後に続発した民族・地域紛争の時代から、その後の「9・11」「アフガン攻撃」「イラク戦争」をはじめとする世界規模での「戦争の時代」への拡大を告げるメッセージでもあった。アグスはその「最期の映像」を、それらの現場に立ち会わなければならない、同じジャーナリストたちへの「遺言」として遺したのだろうか。

★いま世界で(25)

アフガニスタン 戦禍を生きる義足の少年

                          綿井健陽   2004年6月25日

 アフガニスタンのタリバン政権が崩壊した直後の二〇〇一年十一月、首都カブールに入った私は、街の一角で車いすに乗った少年と偶然すれ違った。よく見ると、その少年は両足とも膝から下の部分がない。地雷で足を失った人は決して珍しくない国だが、私は彼をしばらく追いかけた。

 ペルシャ語で「孔雀(くじゃく)」という名前のタウス(当時十四歳)は、三歳のとき両足を地雷で失った。以来、両手を足代わりに地面について「歩いて」いる。

 翌年四月、カブール市内にあるタウスの家を訪ねたとき、彼はようやく義足と杖を使って、よちよちと歩けるようになっていた。母親と弟、そして祖母と親戚が同じ敷地で暮らしている。兵士だった父親は、彼が地雷を踏んだ翌年、内戦で死亡した。アフガンで起きた戦争の悲劇をすべて抱え込んだような家族だった。

 土壁造りの家の中にはテレビもラジオもなかった。小さな掛け時計一つと座布団だけの部屋には、電化製品も見当たらない。本は学校の教科書だけ。新聞が届くわけでもない。「インターネット」など、言葉の意味自体よくわからない。彼が得るあらゆる情報はすべて人づてに、いわば「口移し」で伝わってくる。

 そんな彼に「外の世界で起きたこと」を尋ねてみた。「去年の九月十一日に、アメリカで何が起きたか知ってる?」

 しかし、彼は何のためらいもなく、そして少し誇らしげに答えた。「もちろん知ってるよ。写真も映像も見たことはないけれど、ウサマ・ビンラディンの仕業でしょ。でもね、あれはアラブの名の下に、アメリカ自身があの高いビルを破壊したんだよ。この国もソ連とアメリカが壊したんだ。その代償さ」

 彼がなんとかつかんだ、ほんの一握りの「世界の実像」だった。

 二〇〇二年一月、東京で開かれた「アフガニスタン復興支援会議」の開会スピーチで、カルザイ議長(当時)は、祖国の現状を語った。「この国には何もない。荒廃、戦争、野蛮、貧困、剥奪(はくだつ)。それしかない国だ」

 だが、アフガンは本当にずっと「何もない国」だったのだろうか。最初から「戦争と荒廃の国」だったのか。断じて違う。アフガンは「あったものがすべて奪われた国」にほかならない。それをもたらした責任は、いったいどこの国にあるのか。

 アフガンに続き、今度はイラクにも同じような荒廃、戦争、野蛮、貧困、剥奪がもたらされている。アフガンやイラクだけではない。日本も含めて、世界中の人たちを巻き込んでいくのが「対テロ戦争」の結末だ。イラクの陰で、戦禍を生きるアフガンの人々の存在が再び忘れられようとしているいま、私は、義足で歩行訓練をしていたタウスの姿をあらためて思い出している。

 世界は決して「九・一一同時多発テロ事件」から変化したのではない。イラクもパレスチナもアフガンも、そこで暮らす人たちにとっては、それ以前からずっと変わらない絶望が支配する世界だった。

 「九・一一以前に、世界は何をしてこなかったのか」。そのことを、いまこそ考えるべきだろう。

★いま世界で(12)

イラク・バグダッド 少女の目に突き刺さった戦争

                   綿井健陽   2004年3月26日

 私がその小さな「白い点」を初めて見たのは、昨年四月十三日、米軍が制圧した直
後のバグダッド市内南部の住宅地だった。その一角で、私は右目に白い包帯を巻いた
女の子ハディール・カデム(当時十二歳)と出会った。彼女の頭部を写したX線写真
の右目の部分に、その小さな「白い点」がはっきりと映し出されていた。黒いX線写
真に浮かび上がる、長さおよそ二ミリの「白い点」。それが、彼女の右目に突き刺
さった「戦争」だった。
 昨年四月五日の朝七時ごろ、彼女は突然右目の光を失った。その日は、米軍地上部
隊がバグダッドに迫っていた。空爆機の音が空から聞こえてきたので、家の中の彼女
の部屋で、家族と身を寄せ合って一緒に座っていたときだった。大きな爆発音が聞こ
えた瞬間、部屋の窓ガラスが割れ、破片がハディールの右目に突き刺さった。
 彼女を襲った爆弾は「クラスター爆弾」だった。それは、大きな「親爆弾」の筒の
中に数百個にも及ぶ小さな「子爆弾」が装填されている。空中で「親爆弾」が爆発
し、地上にばらまかれた「子爆弾」がさらに爆発して、周囲何百メートルにも破片が
飛び散る「無差別殺傷兵器」だ。わかっているだけで米軍が千五百発、英軍が二千発
以上のクラスター爆弾(親爆弾)を「イラク戦争」で使用した。
 ハディールに初めて会ったとき、表情には終始笑みが浮かんでいたが、包帯をして
いない左目は決して笑わなかった。「アメリカの兵士にこの目を見せて、何が起きた
か全部説明してあげる。目を元通りにしてほしい。私は絶対に許さない」と彼女は
言った。
 それから一年近くが過ぎた今年三月十七日、私はハディールと再会した。彼女はそ
の後二度にわたる手術を受けて、幸い右目の視力もかなり回復している。だが、目の
奥深く突き刺さった破片そのものは、手術で取り除くことが難しく、いまなおそこに
残ったままだ。「目の奥が痛くて眠れないときがある」と、彼女はいまも訴える。
 空爆の恐怖や被害は、ミサイルや砲弾が直撃することだけではない。クラスター爆
弾は、ばらまかれた子爆弾の炸裂に伴って無数の破片が周囲数百メートルにまで無差
別に飛び散る。そして、その、小さな、ほんの小さな破片が、頭に突き刺さり、内臓
をえぐり、四肢を奪い、目を潰す。
 ハディールのX線写真に映し出された、あの小さな「白い点」を、私はときおり思
い出す。彼女の右目に広がった「黒い視界」と、その奥底に残る数ミリの破片。「精
密誘導爆弾」や「ピンポイント爆撃」なる言葉の実態は、その「黒い視界」と「白い
点」にほかならない。ハディールにとっての「イラク戦争」は、この小さな破片とと
もに目の中にずっと刻まれている。