★いま世界で(37)

ハイチ 困窮逃れ 後たたない密航

                      佐藤文則   2004年9月17日

 二〇〇四年七月、米国から一通の手紙が返送されてきた。それは、不法入国の罪でマイアミの収容所に拘留されているハイチ人女性モナ(三六)に宛てて、二週間ほど前に出した手紙だった。封筒上の「宛て先人不明」のスタンプを見て、モナがハイチに送還されたことを知った。

 初めてモナに会ったのは一九九八年四月、ハイチのウ゛ードゥー教の聖地として有名な、そして彼女の出身地であるスウ゛ェンナス村の祭りを取材に訪れたときだった。小柄だが、ひときわ大きな声で歌い、熱く踊るモナの姿が印象的だった。上手な英語を話すモナは祭りの間、何かと取材の便宜をはかってくれた。それがきっかけとなり、私たちは親しい友人となった。

 村の敷地には約七十戸の小さな家々が立ち並ぶ。だが、祭りの間を除けば、普段は女たちと幼い子どもばかりの数家族が住む、ひと気のない静かな村である。村人の多くは仕事を求めて、近郊の町や都会に移り住んでしまった。村の畑は先祖代々受け継がれ、子孫に分割されてきた。人口増加とともに、個人所有の畑はとても小さくなり、村で生きていくのが困難になったからである。

 この村で育ったモナも一人娘(十三)を姉に預け、首都ポルトープランスで働いていた。しかし、数年前に仕事を無くしてから、苦しい生活が続いていた。ハイチの失業率は70%と言われている。仕事を見つけるのは至難の業だ。考えた末の決断は、米国への密入国だった。

 二〇〇三年十一月、モナは偽造パスポートを手にマイアミ国際空港から米国への入国を試みたが、失敗に終わった。それ以降、収容所での拘留生活が続いていた。強制送還を逃れる唯一の方法である政治亡命を申請したが、証拠不十分で却下された。そしてモナは今年六月、ハイチに送還されたのだ。

 「私たちハイチ人にとって、密航は生きるために必要な至極当たり前の選択だ」

 過去に密航を試みた友人がこのように話していたことを覚えている。

 西半球最貧国のハイチ。そこから北西へ千キロ余りのところには世界で最も豊かな米国がある。人々は全長二十メートルにも満たない木造帆船で米国に密航する。いわゆるボートピープル(小舟で逃れた難民)である。

 だが、密航は危険な賭けである。古い小舟に人がひしめき合って乗るため、途中で沈没することが多く、行方不明になった人々の数は計りしれない。たとえ、無事に米国にたどり着いても、多くは難民とみなされ、本国へと送還される。

 それでも、政治的弾圧や経済困窮を逃れようと、密航を企てる人びとは後をたたない。二〇〇四年二月二十九日、ジャン=ベルトラン・アリスティド政権は反政府武装勢力の蜂起によって崩壊したが、政変の間、二千人以上がハイチを脱出した。

 手紙が返送された一週間後、ハイチに送還されたモナからEメールが届いた。

 「収容所での生活はとてもつらかった。でも、それはギネ(ウ゛ードゥー教の精霊界)が私に与えた試練だと思います。私は今も強く、幸せな人間です」

 モナの苦労は、これからも続くかもしれない。だが、彼女が逞(たくま)しく生き抜いていくことを私は信じている。

★いま世界で(24)

ハイチ 最貧国の人びと支える信仰

                      佐藤文則   2004年6月18日

 ハイチ共和国の首都ポルトープランスの中心部に大きな墓地がある。ジャン=ベルトラン・アリスティド政権が反乱軍の蜂起によって崩壊した二〇〇四年二月二十九日から二週間がたった頃、この墓地で、政変中に亡くなった人びとの葬儀が行われていた。

 病死した老人や子ども、そして、反乱軍によって殺された二十歳の青年。彼はアリスティド派の民兵だったのかもしれない。しかし、反乱軍の報復を恐れた遺族は、それ以上語ろうとはしなかった。

 遺族たちは、埋葬前に棺の金属製の装飾品をもぎ取り、石で叩いて蓋(ふた)の数カ所に穴を開ける。ハイチの風習なのかと思ったが、実は墓泥棒がすでに棺を荒らしたかのように見せかけるための細工だった。ひと気のない墓地のはずれには、泥棒がこじあけた棺と骨がたくさん散らばっていた。「この国ではもう死者ですら尊敬されない」。参列者の一人は嘆いた。

 墓地を訪れるのは、葬儀や墓参りの人びとだけではない。墓地の片隅にある白く塗られた大きな十字架に早朝、人びとがお参りにやってくる。ここに最初に埋葬された死者を記念する十字架だが、人びとは、死と性欲=生を司るヴードゥー教の精霊バロン・サムジがそれに宿っていると信じている。

 ヴードゥー教とはハイチの民間信仰である。アフリカからハイチに奴隷として連れて来られた黒人たちと共に渡来した精霊信仰は、その後カトリック教などと混合し、ヴードゥー教と呼ばれるようになった。主に都市部の貧困層や地方の農民層に信仰されている。昨年、ヴードゥー教は正式に宗教として認められた。

 黒い衣服をまとった骸骨の姿に象徴される墓地の主バロン・サムジは、数多いヴードゥー教の精霊のなかでも、とりわけ強い力を持っていると信じられている。そのため日本や欧米の怪奇小説や恐怖映画では、恐ろしい力を持った悪霊のように誇張して描かれるが、本性はそうではない。

 以前、ヴードゥー教の儀式で信者に憑依(ひょうい)したバロン・サムジを見たことがあった。機知とユーモアに溢れた好色な老人で、猥褻(わいせつ)なしぐさをして、人びとの笑いをさそう。それは、貧困や暴力など日常に忍び寄る死の影に怯(おび)えながらも、笑いを忘れず、たくましく生き延びるハイチの人びとを象徴しているかのように思えた。

 「先祖が夢のなかに現れて、バロン・サムジに祈るようにと、お告げをしました」。ある朝、墓地の十字架の前で、家族の健康と仕事が見つかることを祈っていた男は言った。

 今年、ハイチは独立二百周年を迎えた。だが、今回の政変を含めてクーデターの数はこれまでに三十三回。人びとは政治をあてにすることはできない。世界の最貧国の一つに数えられる困難な状況下にあって、生きる指標として、人びとを根底で支えてきたのはヴードゥー教の信仰だったのかもしれない。

★いま世界で(11)

ハイチ・ポルトープランス 貧しい民衆の失望と落胆   

                      佐藤文則   2004年3月19日


 二〇〇四年二月二十七日、カリブ海に浮かぶ黒人共和国ハイチのジャン=ベルトラン・アリスティド政権が崩壊した。その後、嵐のような暴行と略奪が続いたが、米国やフランスの国際治安部隊が到着し、首都ポルトープランス市内はようやく平静を取り戻しつつある。連日のように響き渡った銃声はもはや聞こえてこない。ニュースを求めて大挙押しかけた海外メディアの多くは去り、一部が残るだけとなった。
 アリスティドはすでに過去の人物となりつつあるが、ハイチは事態の収拾から程遠いのが現状である。一見すると平和そうに思える市内。だが、いつ何事が起きてもおかしくない不安定な状態にある。
 三月六日、大統領府を目指す反アリスティド派のデモ隊の一部にアリスティド派の民兵と思われる武装団(確認は取れていない)が発砲し、数名が死亡、大勢が重軽傷を負った。
 「アリスティドは絶対に戻ってくる!」。スラム街を歩くと、人びとのこんな叫びが今もなお聞こえてくる。アリスティドの壁画や看板は綺麗(きれい)に残されたままだ。また、連日のようにアリスティド復帰を要求するデモも行われている。根強いアリスティド人気に驚かされてしまう。
 しかし、私の胸には空しく響く。アリスティドを支えていたのは名もない貧しい民衆だった。それほど彼を支持していたなら、どうして人びとは米国によるアリスティド誘拐を阻止できなかったのか。どうして大統領府を守ろうとしなかったのだろうか。人びとは難を逃れて家に篭(こ)もり、一部は略奪に夢中になっていた。十年前のハイチで、このような事態が起きたならば、人々は命をかけてアリスティド政権を守ろうとしたに違いない。人々はずっと以前に心の奥底でアリスティドを見放していた。その失望と落胆は、想像を絶するものがあるだろう。
 前回ハイチを訪れた二〇〇一年十一月、長年アリスティドの支持者だったスラム街に住む友人が語った言葉を思い出す。「アリスティドは遠い所に行ってしまった」。一向に改善されない暮らしぶりを彼はそう嘆いた。
 アリスティドがどのような言い訳をしても、彼の民兵たちが引き起こした殺戮(さつりく)の恐怖を、人びとの記憶から拭(ぬぐ)い去ることはできない。
 しかし、私の本音を言わせてもらえば、アリスティドと反アリスティド派の間で何らかの妥協が生まれ、彼には大統領としての五年の任期を満了してもらいたかった。憲法に従い、民主主義の基盤を築いてほしかった。
 一九八八年からハイチを見続けてきた。今回の政変を通して、あらためて思い起こされたことがある。絶え間ない政権抗争、国際社会の極端なまでの圧力(今回は援助金の凍結)か無関心、そして常に背後にある米国の影。ハイチの歴史を語るうえで、必ずといっていいほど繰り返されるシナリオと悲劇だ。今後どのような政権が誕生するのか、今のところ見当もつかない。
 ハイチは世界でも有数の最貧国の一つである。街の至る所に山積みされたゴミのように、たくさんの問題を抱えている。最大の問題は、極端な貧富の差だ。この問題が解決されない限り、また新たな悲劇が起こるかもしれない。