★いま世界で(47)

沖縄・辺野古 恵みの海 基地建設への抗議  

                     森住卓   2004年11月26日掲載

 沖縄県名護市辺野古沖に海上基地建設計画が持ち上がって八年が過ぎようとしている。この間、名護市民の賛否を問う住民投票、推進派市長リコール運動などで、新基地建設計画は大きく揺れ動いてきた。

 今年八月、宜野湾市にある米軍海兵隊普天間基地を離陸直後のヘリコプターが沖縄国際大学に墜落した事件は、沖縄県民にあらためて、米軍基地が県民の命を脅かす存在であることを突きつけた。しかし、政府は沖縄の人びとの意志を逆手に取るように、この事件をきっかけに辺野古の基地建設を強引に推し進め始めている。

 九月、那覇防衛施設局は辺野古沖で、ボーリング地質調査に向けた海底の現況調査に着手。十一月に入って、ボーリング調査の掘削機を取り付けるための櫓(やぐら)や足場を組む作業を強行した。これに対して住民たちは、毎朝七時過ぎからカヌーやボートを出し、夕方まで数時間、時には九時間も、ずっと海上で抗議行動を続けている。十一月の沖縄の海は、晴れの日には泳げるくらい温かいが、長時間波に揺られ潮にあたれば、体温を奪われ全身の震えが止まらなくなる。まして荒天時は命がけだ。

 沖縄の海は、島の周りを囲む珊瑚礁(さんごしょう)が外洋からの波の影響を和らげ、多くの生き物が命を育む場所となっている。特に辺野古周辺は天然記念物のジュゴンが生息する海だ。リーフ(珊瑚の海)内の砂地にはジュゴンの餌となる藻がはえ、この海を潰(つぶ)してしまえば、ジュゴンは棲(す)む場所を失ってしまう。リーフ内は魚の産卵場所でもあり、小さな命が生まれ、やがて外洋に出ていくまでのゆりかごの役割を果たしている。

 基地建設計画が持ち上がって以来ずっと抗議の座り込みを続けている地元のオバアは「辺野古の海は恵みの海さー。戦後、食べ物がなかった時、海からの恵みで子どもたちを育てたさー。この海を子孫に残してやりたい。だから、八年間も座っているさー」と言う。

 辺野古の海と隣接する米海兵隊基地キャンプ・シュワブでは、イラクに派遣される海兵隊員が連日激しい訓練を展開している。早朝から激しい実弾射撃の銃撃音が響き、海岸では水陸両用装甲車の上陸訓練、上空ではヘリが爆音とともに離発着訓練を繰り返している。ここで訓練された兵士がファルージャの虐殺に参加させられている。沖縄の米軍基地はイラク直結する基地でもある。新基地が造られたなら、米軍の世界戦略に組み込まれる重要な基地になることは間違いないだろう。

 沖縄には「幸せは遠い海の彼方から神様が運んで来てくれる」という「ニライカナイ」の信仰がある。沖縄の精神文化と密接に結びついた海を破壊することは、文化を破壊することにもつながっていく。

 辺野古での取材を終えて那覇市に戻ると、街にはもうクリスマスのイルミネーションが輝いていた。会社帰りの人たちや旅行客が足早に通り過ぎていく。わずか五十キロしか離れていない辺野古と那覇で目にする光景の、この落差は何だろう。そして、東京のメディアは無関心を装い、辺野古でいま何が起きているのかを報(しら)せようともしない。この国の将来が恐ろしい。

★いま世界で(34)

イラク・ファルージャ 左目を失った子のピースサイン  

                      森住卓   2004年8月27日掲載

 バグダットの西150キロにある町ファルージャは4月以降、米軍により包囲され、「武装勢力の一掃」作戦が行われていた。当時私はバグダッドに滞在していた。「ファルージャが大変なことになっている。米軍によって大虐殺が行われている」「水や食料が不足している。負傷者は町の外にも出られない」。何人もの人がファルージャの惨状を訴えてきた。しかし、外国人ジャーナリストが町に入るのはとても危険で、すぐには取材できなかった。

 ファルージャで何が起こっているのか、ぜひこの目で確かめたいと思い、イラクイスラム党ファルージャ支部のある人物を介して、ガイドをしてくれる人を見つけた。イラクイスラム党はファルージャの武装勢力と米軍の停戦の仲介役になった組織で、武装勢力に一定の影響力を持っていたのだ。7月になって、彼らの紹介で町の取材に入れた。

 アブダル君(5つ)は4月9日の夜、いつものように兄弟、両親と1階の玄関脇の部屋で寝ていた。突然、顔に激痛を感じ、母親のファディーラさんにしがみついた。妊娠中のファディーラさんもお腹に激痛が走り、布団の上にうずくまっていた。「激しい爆発音が静まるとヘリが飛んできて、銃撃が加えられた。停電のため真っ暗になった中で、助けを求めて泣き叫ぶ子どもたちの声。まるで地獄のようでした」と父親のスマイル・ファラ・フセインさん(47)は言う。

 あたりが明るくなると、部屋の窓枠は吹き飛び、天井には破片が飛び散ってできた穴が無数にあいていた。お腹に銃撃を受けたファディーラさんは胎児が飛び出してしまい、赤ちゃんは亡くなった。アブダル君は左目を失明していた。夜中の激痛は、爆撃による破片が顔面を直撃したためだった。

 だが、町を包囲した米軍に救急車も狙われるため、病院にいくことさえできなかった。皮肉にも、父親のスマイルさんは息子を救いたい一心で米軍に助けを求め、アブダル君をバグダッドの病院へ運んでもらった。米軍は目の応急処置はしたが、顔の傷は治してくれなかった。

 米軍によるファルージャの包囲攻撃は1ヶ月以上にわたり、市民の犠牲者は800人以上に及んだ。亡くなった市民を町の外にある墓地に埋葬できないため、町の中にあるサッカー場が集団墓地になっていた。その中には、幼い姉妹3人が一緒に埋葬されている墓もあった。

 アブダル君は当時の恐怖で今も爆撃された家に帰るのを嫌がり、近くの親戚の家で生活している。左目には白い義眼が入っている。「アメリカの言う自由はどこにあるのか。子どもはアメリカを大変に怖がっている、子どもをこんなにしたアメリカが憎い」。アブダル君を抱きしめながらスマイルさんは言った。

 アブダル君にカメラを向けると、彼は右手でピースサインを作ってレンズを見つめた。その姿は「イラクの子どもたちのことを忘れないで」と訴えているように思えた。彼の人生にこれから待ち受けるであろう苦難に負けず、ハンディを乗り越えて生きていってほしいと願わずにはいられなかった。

★いま世界で(22)

イラク 核汚染ー免れぬ米軍の責任  

                      森住卓   2004年5月28日掲載

 バグダッドの中心部から南東に二十五キロの地点にツワイサ核施設がある。サダム時代、ここはイラクの中心的な核開発施設だった。

イラク戦争直後、この施設からの略奪によって核汚染が引き起こされてしまった。住民たちは施設に保管されていたプラスチック製のドラム缶が欲しかったのだ。水を入れたり、漬物を漬ける容器に使うためだった。数百本あったドラム缶の中には黄色い粉が数トン保管されていたと言われている。無味、無臭の黄色い粉は核施設の周辺や住宅地の道路、空き地、学校の校庭などに捨てられた。黄色い粉が猛毒の放射性物質である天然ウラン(通称イエローケーキ)だとは誰も知らなかった。

 この施設は一九九一年の湾岸戦争後、国際原子力機関(IAEA)の査察が今度の戦争前まで行われていた。その報告によると、この施設に核開発能力はない、核物質はこのまま安全に保管しておけばよい、というものだった。

 戦争が始まり、イラク軍が警備をしていたが、米軍がバグダッドに接近してくると、イラク軍は逃げてしまった。サダム政権崩壊後、イラク全土で略奪が始まると、イラク厚生省放射能防護センター(当時)の職員は米軍に再三にわたって略奪防止のための警備を要請した。職員はこの中に核物質が保管されており、もし、ここから核物質が運び出されたら大変な汚染が引き起こされることを恐れていたのだ。

 しかし、米軍はなにもせず、ゲートの前で住民が略奪するのを見ていただけだったという。そればかりか、閉まっているゲートを開け放したという住民の証言もある。

 こうして「黄色い粉」は住宅地や校庭などに捨てられ、重大な核汚染が引き起こされてしまった。粉末オレンジジュースと思って舐(な)めてみたり、ネズミ退治の殺鼠剤として使ったりした住民もいたという。まもなく住民の中から下痢、白血球の激減、吐き気、倦怠感、皮膚の変色、脱毛など急性放射線障害とみられる症状が多発した。

 事件が世界に伝えられると、国際原子力機関の調査が入ることになったのだが、米軍の妨害で、汚染が始まってから二カ月後にようやく調査が実施された。その後、住民の健康調査などは十分に行われていない。

 一年が経ち、高濃度に汚染された場所だけは放射能を除去するため表土が入れ替えられたが、その他の場所も、被曝した住民も、そのまま残されている。

 いま、さまざまな健康障害を訴える子どもが増えている。核施設周辺には四千人の住民が住んでいるが、彼らは「いつ病気になるのか」という恐怖を抱えながら生き続けなければならない。

 天然ウランの主成分であるウラン238は半減期が四十五億年もある。この地は永久的に汚染されてしまったと言っても過言ではない。イラクの人々は何世代にもわたってその影響を受け続けなければならないのだ。

 略奪を放置した米軍の責任は免れない。

★いま世界で(8)
 イラク バグダッド 

                       森住卓   2004年2月27日掲載 

 白血病の少女サファに出会ったのは、1998年4月、バグダッドのマンスール小児科病院の玄関だった。ちょうど退院するところだった。
 私と視線が合うと、退院できる嬉しさで、彼女は思わず微笑んだ。その直後、風が吹いてきて、彼女のスカーフを取ってしまった。彼女の頭には白血病の薬の副作用で産毛のような髪の毛しか生えていなかった。母親が「治ったから退院するのではないの。薬がなくなってしまったので、仕方なく、退院するの」と悲しそうに言った。
 93年、バグダッドの2つの小児病院に、湾岸戦争後増え続ける白血病やガンの子どもたちに対応するための専門病棟が設けられた。その原因は、湾岸戦争で米英軍が初めて使った放射性兵器の劣化ウラン弾だという。劣化ウラン弾が体内に入ると被爆と金属毒でおかされててしまう。
 私がサファと最後に会ったのは98年12月だった。彼女の自宅を訪ねたとき、父親から「外国人に会うことはできない」とショッキングな宣告を受けてしまったのだ。どうやら、仕事の関係らしい。サダム・フセイン政権下であまり詮索することは、彼の立場を危険なものにしてしまうと思ったので、そっとしておいた。
 以後、サファの消息をしることはできなくなった。イラク戦争の中、彼女はどうしているのか、何とかこの空爆を凌いでほしいと願うばかりだったが、昨年6月、家族全員無事であることがわかり、すぐに訪ねた。
 13歳になったサファはちょっと大人っぽくなっていた。わが子のように私は思わず抱きしめてしまった。家族も本当に嬉しそうに迎えてくれた。
 5年前の退院後、一度再発したものの、今は自宅療養で月に一度病院に行ってチェックを受けるだけだと言っていた。その後12月に会ったときには、学校に通よえるようになっていた。学校を訪ねると、教室で一生懸命手を挙げて先生の質問に答えていた。
 さて、5年前、父親がもう家に来ないでほしいと言った訳は、内務省のビル管理の仕事をしていたからだった。今はすっかりサダムの呪縛から解き放たれ、自由に何でも話しができると言っていた。「いつでも来てください。歓迎しますよ」とサファを抱き寄せて嬉しそうだった。
 学校に通えるまでに回復したサファ。しかし、再発の不安は今も消えていない。
 昨年のイラク戦争でも、米英軍は大量の劣化ウラン弾を使った。サファのような子どもたちが今後もたくさんうまれることは間違いない。
 白血病やガンに冒されたイラクの子どもたちは、人類の未来に警鐘を鳴らしているのだ。