★ いま世界で(45)

アメリカ 恐怖に悶える「安全な社会」

                         桃井和馬  2004年11月12日掲載

 十月末、テキサス州ヒューストンの「ブッシュ・インターコンチネンタル国際空港」を出て街に向かうと、黄色いリボンを胸につけた人びとや、黄色いリボンのステッカーを車体に貼った自動車がいやに目立った。タンポポの花のように鮮やかな色のリボンに書かれていたのは「Pray For Our Troops(私たちの軍隊のために祈りましょう)」という言葉。リボンは、イラク戦争の「正当性」を主張し、ブッシュ再選を支えた人たちのシンボルマークなのだ。「祈る」はもちろんキリスト教の神に対してであり、彼らはブッシュの支持基盤でもある「キリスト教保守派」の面々なのだろう。

 大統領選挙の期間中、共和党集会でブッシュは繰り返した。「フセインを逮捕し、イラクに『自由をもたらした』ことで、アメリカはより安全になりました!」。どの会場に集まった人たちも、割れんばかりの拍手でそれに応えていた。だが…。アメリカ社会は今、見えないテロに対して、悶(もだ)えんばかりの恐怖を味わっている。外部との接点である空港や、アメリカに向かう飛行機に乗ると、それを肌で感じることができる。

 十月初頭、南米に向かうため成田空港で荷物をチェックインすると、航空会社の職員からこう告げられた。「アメリカでトランジットする際、空港査察官に無許可で荷物を開けられる可能性が二割程あります。もしトランクに鍵がかけてあると壊されます。これはアメリカ政府の通達で、保障もされません。鍵はかけないか、かけるなら、壊される覚悟をしてください」

 飛行機は、経由地テキサスまでアメリカの航空会社を利用した。これまでもアメリカの飛行機の機内サービスは決して良いとはいえなかったが、今回はそれが尋常ではなかった。乗務員たちが、まるで不審者に対する警察官のような居丈高な言葉づかいで乗客に接するのだ。乗客の中にテロリストが一人でも交じっていれば、最悪の事態も考えられる。彼らがそれに脅え、乗客を怖がっていることが、言葉の端々から痛いほどにわかった。

 そして乗り換えのため、アメリカの空港に到着すると、靴は脱がされ、ベルトははずされ、カメラ、レンズまでもが、ひとつひとつ爆発物検査機器でチェックされた。

 これらの経験から見えてきたのは、心を高い鉄条網で囲ったアメリカ社会だった。「フォビア(恐怖症)」という言葉が適切かもしれない。外部の人間をすべて敵とみなした上でつくり上げられた、恐怖にまみれた逆バージョンの「刑務所国家」。それがブッシュが説く「安全なアメリカ社会」なのだ。

 ブッシュ支持を鮮明に打ち出した日本国の首相小泉。この男の胸にも「見えない」黄色いリボンがつけられているのだろう。日本社会が、恐怖に染められた「安全神話」を語る日も近いのかもしれない。

★ いま世界で(32)

子どもの権利条約 込められた未来への祈り

                          桃井和馬  2004年8月13日掲載

 1989年、冬。ペルーの首都リマには、街の従来に激しい憎悪の眼差しを向ける子どもたちがいた。ビルから出る暖かい排気に群がるようにして生活する、家をなくした子どもたちの一団だった。私は、彼らと言葉を交わしたあと、カメラを向けた。ファインダーに映るひとりの少年の瞳には、私の姿が映し出されていた。そして静かにシャッターを切った。1回、2回、3回。4回目のシャッターを切った時、少年の顔にわずかな憎悪が浮かんだ。

 その瞬間、周囲にいた小さな子どもたちの手が一斉に私の服のポケットやカメラを目指してのびてきた。振り払ってもなお、のびてくるおよそ20本の小さな手、手、手。獲物を狙う子どもたちの鋭い眼差しに、私は胃酸が口から飛び出すほどの恐怖を感じた。ペルーはこの時期、制作の失敗から、紙幣が紙くずのようになり、街には失業者が溢れていた。

 この経験以降、子どもたちを世界で見続けている。そして感じるのは、子どもがあらゆる可能性を秘めた存在だということだ。善も悪も、清も濁も、およそ大人が抱え持つ心のありようはすべて、正確に子どもへと照射され、再現される。ひとつの社会がまっとうか否かは、社会の中で一番弱い存在である子どもを見れば、顕著に知ることができる。子どもは社会のバロメーターなのだ。

 奇しくも1989年、国連総会で「子どもの権利条約」が採択された。日本はこれを94年に批准。子どもたちの権利と保護を記したこの国際的な取り決めは、当時、この国でもかなり話題になった。

 条文前例にこうある。

「子どもたちは、使っている言葉や家族のことなど、どんなことを理由にしても差別されない。平和、尊厳、寛容、自由、平等などの精神によって、子どもは育てられ、子どもの生活環境を守るために、国際社会は協力する」(著者訳)。

 日本だけでなく、世界中から、子どもたちを巻き込んだ悲しいニュースが、毎日、飛び込んでくる。そうした事実を前にすると、この前文が切なる「願い」であることがわかる。世界各地で続く戦争、天文学的なレベルまで広がった貧富の差、加速度をつけながら悪化の一途をたどる自然環境…。諸々の負なる事柄が、子どもたちの生活環境をも悪化させ、胸が締めつけられるような出来事となって露呈しているからだ。

 「もし戦争が起きたなら、子どもたちに関係したすべてのことが、もっとも尊重される」と定めた第38条1項も、イラクに注目したなら、現実が異なるからこそ、「そうあってほしい」という強い願望に思えてくる。子どもは、人類の「未来への可能性」にほかならない。子どもを守り、育てることが、ひいては社会を守り、世界のまっとうな未来へとつながる。その意味で、この条文は、人類の未来に願いを込めた「祈り」なのだ。

 ユニセフ(国連児童基金)によると、締約した国と地域は現在192。だが未締約国も2カ国ある。ひとつは、10年以上武力闘争が続き、無政府状態に置かれているソマリア。そしてもう一国はアメリカである。

 

★ いま世界で(19)

NY 連鎖する戦争…人びとの怨嗟

                          桃井和馬  2004年5月14日掲載

 「二〇〇一年九月十一日、あたなはどのような状況で『あの映像』を見ましたか?」
 この質問を、海外取材に出るたび、アジアでも、アフリカでも、ヨーロッパでも繰り返している。興味深いのは、私の投げかけた問いに対して、皆一様に饒舌(じょうぜつ)になってしまうことだ。いまも「語らずにはおれない」衝動は、「あの日」の意味が、個々人で消化できる範ちゅうを軽々と超えてしまったことによるのだろう。
 かくいう私があの映像を見たのは、ベトナムに向かうウクライナ船籍の船の上であった。船の揺れと酒の酔いに身をまかせ、朝日を拝み、風の音を聞く旅。そんな船上の静けさを破ったのは、突如耳に飛び込んできた白人女性の一言だった。
 「陸で、アメリカで大変なことが起きている!」
 衛星の電波を捉える船内テレビをつけてみると、流れていたのは混乱するニューヨークの光景を映し続けるロシア語の緊急ニュースだった。女性キャスターが早口で話す内容はまったく分からなかったが、その緊張しきった面持ちから、私にはひとつだけ確かなことがあった。世界史の針が一気に進められてしまった、その事実だ。
 歴史の針はどう進んでしまったのか? その答えを求めるべく、あの出来事から一年たった二〇〇二年九月十一日、私は「グラウンド・ゼロ」に立った。
 強烈なスポットライトに照らし出された、ニューヨークのど真ん中の何もない空間。二つのビルだけが跡形もなく姿を消したその空間を見守るように立ついくつもの高層ビル。映画「ブレードランナー」の舞台となった、人工的な未来都市に迷い込んでしまったような錯覚を覚えた私は、二つのビルが消えたその「何もない空間」に向かってシャッターを切り続けていた。この「空間」は、いったい私たちに何を語りかけているのか…。
 あの事件から三年近く、私は世界各地の戦場を回り続けてきた。それは、ニューヨークに突然生まれたこの場所の意味を自分なりに考え続ける取材旅行だった。
 アフガニスタンの沙漠で出会った男は、戦争で家族のすべてを失い、希望を見いだせずにいた。アフリカの辺境の地では、資源略奪紛争が激しさを増す光景を目の当たりにした。そして、今年二月に訪れたイラクのファルージャでは、人びとが、飛び交う銃弾と炸裂する爆弾に怯(おび)える日々が続いていた。
 アメリカに象徴される地球規模の大量生産と大量消費。天文学的な経済格差が当たり前になったこの時代は、「パックス・アメリカーナ」(アメリカを基軸とした平和)の生み出す戦争が次々と連鎖し始めた時代でもある。その結果、人びとの怨嗟(えんさ)の声が鮮明に聞こえるようになった。
 世界がいま必要としているのは、あの「空間」の存在を乗り越えていく叡智(えいち)なのだろう。

★いま世界で(6)

ケニア・ツァボ国立公園

                      桃井和馬  2004年2月13日掲載

 たぶん今、人類に最も必要なのは「想像する力」なのだろう。
 想像してほしい。このモノクロの写真に写る赤い子象の姿を。赤といっても、赤鉛筆の赤色ではない。目が覚めるような紅(くれない)色の子象だ。
 四国ほどの面積を持つケニア最大の自然保護区「ツァボ国立公園」に棲息する象は、どれも身体全体が深紅に染まっている。土壌中の酸化鉱物が、サビて紅色になったラテライト土壌(赤土)。その土壌が混じった泥水を、象が長い鼻で吸い込み、身体中にかけるからだ。
 アカシア科の木が点在するだけで、まともな陰などないサバンナ地帯で、アフリカ象は身体に刻まれた無数のしわに赤土を貯め、膜を作ることで、ジリジリと照りつける熱帯の直射日光から身体を守ってきた。環境に適応するなかで身につけた知恵だった。
 だが、適応を超えた災難が象に降りかかったのは20世紀末のこと。密猟が横行したツァボ国立公園では、かつて3万5千頭いた象が、1980年代末の時点で5千頭になるまでにその数を減らした。ライフルやロケット砲まで待ち合わせた密猟者たちは、装飾や細工物で珍重される象牙を取るためだけに象を殺し、大ナタを使い、鼻と牙だけを切り落としていった。厳しい密猟対策の結果、現在。頭数は1万5千頭回復している。また、親を失った子象のための「孤児院」も運営されるようになった。象はその大きさ故に、人間から充実した支援体制を約束されたのだ。
 だが、守るべきものは象だけではない。サバンナに点在するアカシア科の木は、大気中から吸収した窒素を根に規制する根粒菌に与え、根粒菌は、植物の栄養となる窒素化合物を土壌に放出する。だからアカシア科の木がなくなってしまえば、一気に砂漠化が始まる。
 サバンナでは人間の背の高さほどになるアリ塚をよく目にするが、寿命を終えた木々を食料にするシロアリたちは、「熱帯の掃除屋」の役目を担っている。もしサバンナにシロアリが棲息していなければ、枯れた木々が山のように積もり、自然体系は崩れる。
 植物にしろ、昆虫にしろ、動物にしろ、自然界ではそれぞれに大切な役割があり、微妙なバランスの上で生存し、時には食物連鎖の形をとりながら、環境の一部として、結果的に破壊され、一時間でおよろ5種、一日では120種、一年間で4万種あまりの生物種が、この地球上から姿をけしているのである。
 動物も、昆虫も、植物も、菌も、そしてバクテリアまでもがすべて関係しあう中で保たれている自然環境の不思議。今、人類に必要なのは、その循環を、そしてそれを破壊し続ける人間の行為を「想像する力」なのだ。それなくして人類の未来はない。