★いま世界で(49)

タイ 地雷で傷ついた象の問いかけ

                         小林正典   2004年12月10日

 地雷で吹き飛ばされた前足の痛みを言葉にもできず、森林伐採現場から車の通る道路まで十キロの山道を、一頭のアジア象が三日かけて歩き通した。三本の足で歩む象を、「歩けタモラ!」とタイの人々は応援した。

 タイ、ミャンマー国境の森林伐採現場では象が材木運搬に従事している。ミャンマー軍事政権と対立する少数民族カレン族の居住地域とも重なるこの一帯で、地雷の犠牲になるのは人間だけではない。傷を負い歩けなくなった象は、その場に放置され、死を待つしかない。

 モタラが負傷してから四日目にトラックで運ばれたのは、タイ北部チェンマイから南へ七十キロのランパンにある象病院だった。丘に囲まれた森の中に世界で初めてつくられた象の病院だ。代表のサルワラさんが、交通事故に遭った象を見て、象にも病院をつくりたいと考えたのは今から三十年ほど前、八歳の時のこと。その願いが一九九三年に実現した。これまでに四百頭の象がここで治療を受けてきたという。私が訪ねたとき、モタラのほかにも、モヘとモチという二頭の地雷被害に遭った象が入院していた。

 ニュースで取り上げられ、世界の人々が見守るようになったモタラの手術のために、三十人の医師団が結成され、九九年八月に左前足の切断手術が行なわれた。人間七十人分の麻酔を打たれたモタラが目を覚ましたのは丸一日たってからだった。

 私がモタラを取材したのは、手術から一年八ヶ月後。懸命な治療にもかかわらず、傷の状態も思わしくない、義足も難しい、そんな時期だった。モタラの体重は三トン。頭が重いためそのうち二トンが、地雷の破片が残る右前足一本にかかる。

 獣医師のプリーチャさんは「傷が回復しなければ、安楽死を考えている」と語った。欧米からは当初から安楽死の声があがっていたという。しかし、昔から象を仏様の遣いとして大事にしてきたタイの人々は、あらゆる手段を尽くし、人間がつくった地雷で傷ついたモタラを見守る道を選んだ。

 このところニュースで取り上げられなくなっていたモタラだが、その後傷はだいぶ癒え、今年八月には手術から五周年記念の催しがもたれて、皆から祝福を受けた。完全に傷が治ってから義足を試すという。痛みが強いようなら、もう義足の装着はしない方針だ。いまモタラは病院内で元気に散歩や水浴びをし、他の象と遊んでいる。

 モタラはなぜ、激痛をおして歩き続けたのだろう。歩くのをやめたら死が待つことを本能で知っていたのか。モタラの執念ともいえる行動は多くの人を感動させるとともに、多くの問題を私たちに投げかけた。

 人間の欲望を満たすための横暴や身勝手が地球の許容限度を超え、生態系に大きな影響を与えている。地雷をつくり続けているのも人間である。だが、地雷によって傷ついた一頭の象の回復を願うのも人間だ。その思いが、動物などあらゆる命を視野に入れた、地球の未来のための行動につながることを期待したい。「自然との共存」などと身構えることもなく、人間が自然の一部だった時代はそう古い話ではない。

 モタラとは「森の緑」の意味だ。豊かな自然、平和を願うシンボルとして、モタラの一歩一歩は私たちの心に問いかける。人間はこのまま破滅への愚かな道を進み続けるのか、と。

★いま世界で(36)

カンボジア 廃絶進まぬ「悪魔の兵器」

                         小林正典   2004年9月10日

 カンボジアには5月から十月の雨期と乾期のふたつの季節しかない。そのカンボジアの地雷被害者の子どもたちとの交流を私は毎年続けている。今年の雨期は雨が少なく、やっと本格的に降り始めたのが私が訪れた七月だった。

 雨期に訪れると、バッタンバン近郊の村に住むヤット君のことが気にかかる。片足で杖(つえ)をつき、ぬかるんだ道を苦労して歩いているのではないかと。カンボジアは国道をはずれると舗装が途絶え、車が途中で引き返すこともある。ヤット君に会いに行くのは雨期には難しい。

 一九九八年二月、当時は十四歳だったヤット君は、田畑を切り開くため父親と森で開墾作業中に地雷を踏んだ。父親に抱きかかえられ、バイクタクシーで病院に着いたのは九時間後だった。

 その年の六月、バッタバンの赤十字国際委員会義肢センターでヤット君に初めて会った時、彼は義足をつけての歩行訓練の六日目だった。十三人兄弟の上から三番目の彼は、少しでも早く村に戻り弟や妹の面倒をみようと、三週間の辛い訓練に耐えた。

 足を切断しても、ひざから下の義足なら動きも比較的スムーズで、農作業もかなりの程度可能といわれている。しかし、ヤット君のようにひざ上で切断され関節がない場合は義足も大きく重い。動きも不自由だ。しかも成長期の子どもは、伸び続ける骨が傷口をつき破る。再手術、義足の作りかえも半年に一回必要で、体の負担も非常に大きい。二度目に会った時、彼は義足ではなく松葉杖で歩いていた。

 被害が散発的なためピンとこないだろうが、地雷は無差別テロだ。地雷被害者は死亡するより一生障害を背負わされる人の方がずっと多い。それこそが兵器としての地雷の存在理由なのだ。周囲の人間の手を借りる一生を強い、社会の生産性低下を狙う。しかも戦争や内戦が終結してから何十年も、誰かが踏むのを待ち続ける。まさに悪魔の発想から生まれた兵器なのだ。

 そんな地雷がカンボジアに六百万個、世界には七千万個も埋められたままなのである。さらに、二億三千万個もが兵器庫に貯蔵され、なお製造され続けている。対人地雷全面禁止条約に百四十以上の国が署名し、地雷廃絶を呼びかけているが、肝心の地雷生産国アメリカ、中国、ロシアが署名を拒み、前に進まない。

 地雷への関心が高まり、地雷被害者の子どもたちに世界の援助が届き始めている。子どものうちはまだいい。問題はその後だ。十八歳になると施設を出されるため、職業訓練などの機会も減ってしまう。大人になった時、厳しい現実が未来に立ちはだかる。

 全く自分に責任のないことで障害を背負い、絶望感に襲われた子どもたちが、義足で再び歩けた事に感謝し、仲間を得て成長していく。学業、結婚、仕事などの可能性の芽を摘むことなく、伸ばせる部分を最大限に伸ばしてこれからの長い人生を生きてほしい。そのためにも、子どもたちの十年、二十年後の未来を広げる援助を世界に期待したい。

 追跡取材してきた子どもたちも、そろそろ大人になる。来年は二十一歳になるヤット君にきっと会いに行こう。

★いま世界で(23)

インド 差し出された指のない手

                         小林正典   2004年6月11日

 巡礼者や旅行者が絶えることのないバラナシ(ベナレス)の街角で、手押し車に乗った

男性とふと、目が合った。私に近づき、差し出した手の指はほとんど失われていた。病気が治癒していても、ハンセン病の外観の残る人が、大都会、観光地で、自分の体をさらして物乞いをするのはインドでよく見かける光景だ。この国でもハンセン病への偏見は強く、一般に就業は困難だ。

 貧しい人の救済に徹したマザー・テレサは、ハンセン病患者にも手を差し伸べた。二十三年前、コルカタ(カルカッタ)近郊で、マザー・テレサのハンセン病センターを取材した。病状の進んだ人は治療に専念するが、働ける人は織物、養鶏、野菜栽培などの仕事を分担していた。給料も支払われ、自立している自信が表情に見てとれた。

 また、取材ついでのボランティアで、患者に路上で薬を配った経験もあるが、外国人の私に話しかける人もおり、表情も屈託のないものだった。カーストの身分差別に加えて、インドでも病気への差別、偏見はたしかにある。だが、患者たちは社会の一員として生きている。

 明治時代以来、日本のハンセン病対策は徹底していた。患者は人間関係を絶ち、死ぬまで隔離され続けた。衣食住は保障されるが、人権侵害という点では世界でも例をみない。特効薬ができて世界で隔離政策が廃止となっても、さらに三十年以上、国は「らい予防法」に固執した。この法律は一九九六年にようやく廃止となったが、社会の偏見は変わらず、元患者は社会に戻れずにいる。

 昨年十一月、熊本のホテルが元患者の宿泊を拒否した問題が報道されると、元患者のもとへ非難、中傷の電話、手紙が殺到した。あからさまな差別の言葉とともに、「善意の差別」が彼らを傷つけた。これまでの人権侵害に理解を示しながら、元患者によるホテルへの抗議を「出すぎた行動」として厳しく非難したのだ。隔離政策をとり続けた国が長期にわたって国民に植え付けてきた偏見の根深さを私自身再認識させられた事件だった。

 マザー・テレサがインタビューで語った言葉を思い出す。「人間にとって最も深刻な病気は愛情の欠如です。病気を治す薬はできたとしても、奉仕の心と愛する心がない限り、この病気は癒やせません」。一九八〇年代に来日したマザー・テレサが、もし、日本のハンセン病元患者の実態を知っていたら、何をしただろう。

 マザー・テレサが亡くなって六年余りになる今年、コルカタで墓参りをしたあと、「死を待つ人の家」を訪れた。行き倒れで収容された人たちへの奉仕は、マザー・テレサ亡き今も変わらない。私を驚かせた変化は、ボランティアとして働く日本の若者の多さ、彼らの懸命な活動だった。インドという懐深い国に彼らが育てられているのを実感した。

 偏見をもつ世代を変えるのは難しい。だが、若者の心に差別、偏見を植え付けないことはできる。

 それは社会の責任だ。

  

★いま世界で(10)

カンボジア・プノンペン 最底辺の人々に届かぬ「援助」  

                         小林正典  2004年3月12日

 毎年地雷取材のために訪れるカンボジアで、必ず立ち寄るのが、首都プノンペンの「宮殿通り」と呼ばれる高級住宅街と、そこからわずか数キロのところにある巨大なゴミ捨て場の二カ所だ。両者を見れば、カンボジアの経済状態がわかる。年々、貧富の差が拡大し続けているのが一目瞭然だ。
 国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)が主導した一九九三年の総選挙や、九八年のポル・ポトの死去で、三十年来の戦争が終結したことが、カンボジアに多額の国際援助を呼び込んだ。農村ではまだ電気、ガス、水道のない生活があたりまえだが、ポル・ポトの農業政策でさびれていた首都プノンペンは、「国連景気」でドル紙
幣が舞い、拝金主義がはびこる。
 宮殿通りでは豪邸の建築ラッシュが続き、アスファルト道路を高級車が走る。贅沢三昧(ぜいたくざんまい)の生活を送る高級官僚、エリートたち。最低の生活を強いられている人びとに、私たちの税金である政府間援助は届いていない。
 プノンペンのゴミ捨て場には、家族の生活を支えるため、学校へも行けずに一日中空き缶やプラスチックを拾い集めて売る子どもが二百人近くいる。この子どもたちや最底辺の人びとを辛うじて支えているのがドイツやカンボジア国内のNGOだ。ドイツのあるNGO職員は語る。
 「ここでは、外国からの援助を引き出せるのが“いい国会議員”と言われている。援助金のほとんどは上層部に流れていく。いろいろな国で活動してきたが、これほど腐敗した国はなかった。政府間援助をストップし、NGOも引き揚げたほうがこの国のためだと思うが、私たちがいなくなれば弱者が困る。貧しい子どものための学校も
なくなってしまう…」
 四〇度近い気温にさらされたゴミの悪臭を、どういう言葉で表現できるのだろう。ドロドロになった生ゴミに何十万匹ものハエが群がる。そしてゴミの山から立ち昇る煙。
 少女が、ゴミの中から白いビニール袋をみつけた。高級ブティックのものだろうか。袋に印刷された写真をしばらく見つめた後、彼女は、引っかき棒でめぼしい物を拾い上げると、黙々とその中に入れ始めた。ファインダーの中で、ダイオキシンを含んだ煙が私と少女の間をさえぎった。
 安定した日本経済さえ、バブルで踊らされた。カンボジアはいま、その何十倍もの極端な経済変化の中にある。「捨てるものはワラだけ」と、物を大事にしてきた社会が崩れ、やがてクメールの人びとの微笑まで失われていくのだろうか。
 長い歴史が育ててきた民族性や文化を、「援助」は短期間で破壊することもできる。一度崩れたものは元に戻らない。援助の必要性と危険性を、私たちはもっと真剣に考える必要がある。いったい誰を、あるいは何を、私たちは援助しているのか、と。