★いま世界で(40)

薬害エイズ

                          広河隆一 2004年10月8日掲載

 一九九三年ごろから私は薬害エイズの取材を始めた。HIV感染者とその家族たちは顔を出せないから、写真やテレビの取材は困難だった。彼らは当時、カーテンの後ろでシルエットの状態で発言していた。身元が分かれば、大変な差別にさらされることを覚悟しなければならなかった。しかし、この問題を広く人びとに訴えるためには、その壁を乗り越えなければならない。

 そうしたとき、私は感染者のAさんと知り合った。私は彼の顔を出さないように注意して取材した。私たちはフランスに一緒に行き、現地の薬害エイズの原告たちを訪ねた。

 顔を隠して取材しても、近しい人には分かってしまう。私は彼に私の上着を着てもらい、腕時計も私のものを付けてもらった。バッグも特別に用意した。こうしてたとえ手元だけが映っても、後ろ姿でも、彼であることが特定できないようにした。この取材はテレビと雑誌で発表された。彼はこの数年後に亡くなった。

 薬害エイズの取材で、そのあと出会ったのが川田龍平さんである。当時十九歳だった彼は、いつかカミングアウトすることを決意していた。カミングアウトは慎重にしなければならなかった。同時に、被害者たちが無念な思いで死んでいっているのだから、この闘いには勝たなければならない。

 龍平さんは感染とカミングアウトという問題に直面して精神的にも不安定だった。しかも受験生である。私は彼の家の中で、気配を消すようにして撮影を続けたが、彼にとっては堪え難い毎日だったに違いない。彼自身がカミングアウトを自分の闘いと捉えていなければ、二日と続くものではなかっただろう。

 彼の友人も含め、周囲の人は、なぜ私が彼を撮影しているのか知らなかった。私は「ある受験生の生活」というテーマで取材していると説明していた。

 今でも強く記憶しているのは、彼が同じ予備校の友人たちに自分の病気を語るシーンだ。

 彼が告白を始めたとき、私は大急ぎで二台のビデオカメラを机の上にセットした。ひとつは彼の表情を追って、そしてもう一台は話を聞く友人の方向に向けた。そしてそれらを操作しながら、マイクを持って、さらにスチールカメラで撮影し続けたのである。

 川田龍平さんのカミングアウトの日は一九九五年三月だった。その日、彼の写真は週刊誌のグラビアを飾り、同時に写真集としても出版された。そして、その日から三日間連続してテレビの番組で放映されたのである。記者会見には、在京の主な報道機関が全て詰めかけた。この日は薬害エイズの闘いの歴史のひとつのエポックとなったと思う。私は川田さんの闘いに参加できたという誇りを今でも感じている。

 しかし、薬害エイズは、避けようとしたら避けられた問題だったのに、責任ある人間たちが正当に裁かれたとはとても思えない。この十月五日、厚生省側の責任者であった松村明仁氏の業務上過失致死罪を問う控訴審が結審したが、被害者たちは肝炎を併発して一人二人と亡くなっている。薬害エイズは今なお終わってはいない。

★いま世界で(27)

レバノン 奪われた命…託された遺品

                          広河隆一 2004年7月9日掲載

 一九八二年九月にレバノンのベイルートでパレスチナ難民キャンプの虐殺事件を撮影したことは、この連載の第一回でふれた。ここではその後のことを書きたい。

 死者は二千人とも三千人とも言われたが、単に数字で表されたその人々が、殺される前どのような生活をしていたのか、どのような夢を持ち、どんな朝を迎えていたのか、知りたいと思った。

 しかし、イスラエル軍とレバノン右派民兵勢力に十重二十重と囲まれたベイルートに再び入ることができたのは一九八四年だった。私は瓦礫(がれき)となった難民キャンプを歩き回り、かつて撮影した場所を訪ね、遺族に会い、話を聞いた。

 遺族は私に遺品を託した。黄色い子ども服を託した母親は、自分が入院していたとき、八歳の娘が心配して病院を訪ねる途中で射殺されたと語った。青いセーターを託した人は、この服を着ていた若い女性は妊娠していたおなかを切り裂かれて殺されたと教えてくれた。この女性は生まれつき耳が聞こえず、話もできなかったという。十九歳で結婚し、赤ちゃんがおなかにいるときに殺されたのだった。

 遺品は百点を超えた。その年、私は「レバノン戦争と虐殺の写真展」を大阪と東京で開いた。そして遺品と遺族の子どもたちの写真を並べ、彼らが日本の支援を待っていると書いた。こうして「パレスチナの子供の里親運動」ははじまった。これまでに日本から生活費と教育費の支援を受けた子どもは数千人になる。

 このころ難民キャンプの病院で狙撃事件があった。待ちに待った春が訪れ、暖かい日差しに覆われたその日。親が殺されたいまわしい記憶も少しずつ遠のき、自分の火傷の治療も進んでいた十一歳の少女ファティーマは、病院の部屋でジグソーパズルとオルゴール時計で遊び、そしてベランダに出た。その瞬間、数百メートルはなれたところから銃弾が発射された。

 翌日、私がこの病院を訪れたとき、芝生の上には真っ白な頭蓋骨の破片が散乱したままだった。

 病院の医師はこの子のことを日本で紹介してほしいと言って、私にオルゴール時計を託した。ねじを巻くと、ファティーマが死の間際に聞いていたメロディーが流れた。

 早稲田大学の写真展で私はこのオルゴール時計を展示した。ある日、一人の女性が私のところに来て「あの時計はもしかしたら日本製ですか」と聞いた。私は「ええ、そうです」と答えた。女性は時計のスケッチをして、その場を離れた。

 翌日だったと思う、電話が来た。男の人が「実はあのオルゴール時計の作者は私なのです」と言った。「子どもの幸せを祈っておもちゃを作り続けてきましたが、そのおもちゃの奏でるオルゴールがファティーマの命が消えるときに鳴っていたと知って衝撃を受けました。オルゴール時計との再会は、私のこれからの人生に大きな影響を与えると思います」

 虐殺事件は私に、その後もフォトジャーナリストとして仕事をする道を選ばせた。それから二十年余がすぎるいまも、パレスチナの人々の苦難は続いている。

★いま世界で(14)

消えた村々 歴史を記憶する責任

                          広河隆一 2004年4月9日掲載  

 一九九九年までに私は二十六回チェルノブイリ原発事故の被災地を取材している。放射能は人間の身体を襲い健康や命を奪ったが、村々の息の根も止められた。事故から十数年も経つと、村民の避難した村々は朽ち始めていた。撮影した村はおよそ四百六十になる。
 こうした村々の中には、野焼きの火が燃え広がって、焼け落ちた村もあった。煙は放射能を含んで、汚染を広げた。放射能が拡散していくのを防ぐため、家々は倒され、地中に埋められた。これを「村の埋葬」と呼ぶ。
 村々の撮影は困難を極めた。まず高濃度汚染地帯は特別な許可がない限り立ち入ることができない。次に誰も通らなくなって何年も経つうちに村への道は荒れ果てて、倒木が行く手を阻み、たどり着くことが非常に難しい。次に放射能が高いため時間をかけて村を探すことができない。
 このときガイド役をつとめてくれたのは、緊急事態省の専門家たちだったが、その二年後に私が写真集をまとめ、お礼に届けようとしたとき、すでに彼らの三分の一はガンなどで死亡していた。
 チェルノブイリの次に本格的に取りかかったのが、パレスチナの消えた村々の撮影である。
 今から三十七年前、私は大学を出てすぐにイスラエルに行った。あこがれて入ったキブツ(イスラエルの農業共同体)のすぐ隣にあったひまわり畑の横の白い瓦礫(がれき)が、パレスチナ人の村の跡だったと分かったとき、私は消えていくパレスチナの村々の痕跡を記録に残さなければならないと思い始めた。
 それから二十年以上経って、私はかつての消えた村の正確な位置を示す地図を手に入れ、本格的な取材を始めた。
 イスラエル建国の一九四八年、パレスチナの人々は村を追われ、膨大な難民が生まれた。その後パレスチナの村々は組織的にイスラエルの手で破壊された。村は完全に雑草に埋もれ、その跡を発見することは容易ではなかった。二百七十の村の取材を私は記録集にまとめた。
 一昨年、私はホロコースト(ナチスによるユダヤ人大虐殺)で消えたユダヤ人社会を記録する作業に取りかかった。記憶を伝える人が今なお残っているウクライナの村々から私は取材を始めた。かつてユダヤ人たちが埋葬された場所は、今では繁華街の通りができていたり、学校のグラウンドになっていたりする。その下に人々の遺体は埋まったままになっているのだ。
 そうした場所に立ち、地中深くに埋められた人々のことを考えると、人間はまだホロコーストを過去のことにするわけにはいかないこと、そして記録することがいかに重要かということを、つくづく思うのだ。報道の基盤には記録するということがあり、歴史を記憶することが私たちの責任なのだと。

★いま世界で(1) 

パレスチナ難民キャンプ 

                      広河隆一   200419日掲載

 1982年にレバノンのパレスチナ難民キャンプで虐殺事件が起こった。虐殺を行ったのはレバノン右派民兵だった。それからしばらくして、シリアに行ったときのことだ。ダマスカス市内の病院を取材していると、一人の患者が私を呼び止めた。「ヒロカワだろ?」と言う。彼に会った記憶がなく、きょとんとしていると、彼は私が82918日にどこからどこに行ったか、詳しく言ってのけた。

 この日は虐殺の難民キャンプに私が入った日である。驚いて、なぜそれを知っているのか聞いた。彼はこの日、私をずっと尾行していたと言う。18日の記憶を呼び起こしてみても、午前中はイスラエル兵以外には死体しか見なかった。しかし彼は見つからないように尾行を続け、私が難民キャンプに入り安全圏に脱出するまで見届けたと言うのである。「なぜだ」と聞くと、かれはパレスチナ作家同盟に属しており、私を知っていて、私が難民キャンプを取材し、事件を海外に伝えることができるように、銃を忍ばせて護衛していたらしいのだ。

 それから20年後の20024月、多くのジャーナリストは封鎖されたジェニン難民キャンプに入ろうとしては失敗を繰り返していた。私も何度か試みては、あと一歩でイスラエル兵に発見され、追い返された。この頃、イタリアやフランスのジャーナリストたちが撃たれ、また、難民キャンプに入ろうとしたジャーナリストは拘束され、プレスカードを取り上げられて国外追放されたりしていた。

 ある日、私と数人のフォト・ジャーナリストは正面の道から難民キャンプに近づいていた。当然私たちは発見され戦車が轟音を上げて追いかけてきた。こうした時、普通のジャーナリストは逃げてはいけない。逃げたら撃たれる。しかし私は難民キャンプに入るまでに逮捕されるわけにはいかなかった。路地に逃げ込むと、そこは5メートルほどで行き止まりだった。万事休すと思った瞬間、道を隔てたパレスチナ人の家の戸がそっと開けられ、男が手招きした。一瞬躊躇した後、私はそこに飛び込んだ。その瞬間、戦車が家の真横で止まった。戦車砲が旋回し、銃機関銃を構える兵士が隙間から見えた。彼らは私たちを見失ったのだ。どれほど長い時間が過ぎたかは分からない。戦車は遠ざかっていった。

 こうした状況でジャーナリストをかくまえば危険なのはむしろパレスチナ人である。私たちが逮捕ですむときも、彼らは殺される。それが分かっていて助けるのは、ここで起こっていることを外部に伝えてほしいという彼らが強く望んでいるからである。加害者は被害を隠す。ゆえに被害者はジャーナリストの手を借りて何とか被害を伝えようとする。それが次の被害を防ぐ唯一の道だからだ。人々とのこうした関係を保ちながら、私は取材を続けている。