★ いま世界で(46)

チェチェン 日常化する攻撃、拷問、処刑

                      林 克明  2004年11月19日掲載

 十人の死を悲しみ、数十万人の死には無関心でいられるーそんな“異常な感覚”が普通になってしまったのではないか。

 ロシア・チェチェン戦争で、ロシア側に死者が出ると大きく報じられるが、それをはるかに上回るチェチェン側の犠牲について語られることは少ない。言い方を変えれば、「反テロ戦争」を進める側の犠牲は伝わるが、攻撃される側の被害は隠されている。

 今年九月に起きた、ロシア北オセチア共和国の学校占拠事件では、三百三十人以上が犠牲になり、しかもその多くは子どもだった。子どもを人質にとるなどというのは、許しがたい犯罪だ。

 いまだこの事件の本当の組織者は不明である。ただ、犯人がチェチェンからのロシア軍の撤退などを要求したことから、事件の背後にチェチェン問題があることは確かだ。

 独立を宣言したチェチェンにロシア軍が侵攻してから、この十二月でちょうど十年になる。第三者が入れないため、実態は隠され続けているが、この間にチェチェン住民百万人のうち二十万人以上が殺されたと言われる。悲惨な学校占拠事件がこの十年間に何百回も繰り返されているような状況ーそれがチェチェンなのだ。

 ロシア軍の占領下にあるチェチェンでは、無差別攻撃、住民の拉致、拷問、強姦、処刑が日常化している。そして、ロシア軍が何をしても罰せられることはない。文字通りの「無法地帯」がそこにある。

 ムサー・ハジムラートフ(二八)は、車を運転中、ロシア軍に銃撃されて重傷を負った。戦争中のチェチェンではまともな治療は受けられず、隣国のグルジアへ、さらにアゼルバイジャンへと逃れた。チェチェンで数えきれないほど起きている悲劇の一例である。下半身不随で人工肛門の生活となったハジムラートフだが、外国の援助団体の助けで、娘と一緒に暮らせるだけでも不幸中の幸いと言えるのかもしれない。

 このような状況をチェチェンの子どもたちはずっと見続けてきた。そしてまた、多くの幼い命が奪われてきた。二十万人の犠牲者のうち四万人以上が子どもであり、一万人以上が親を失い、約四千人の子どもが障害者となった。

 難民としてアゼルバイジャンに逃れた子ども十五人の声を集めた『子どもの物語にあらず』というドキュメンタリー映像がある。チェチェンの女性ジャーナリスト、ザーラ・イマーエワの作品だ。この作品の中に子どもたちのこんな言葉が出てくる。「ロシア人はチェチェンをなくしてしまいたいんだ」「ロシアの子どもたちを殺しちゃえばいい。だって大人になったら僕たちを殺すんだもの」。

 大人なら、軍と一般のロシア人を区別して語ることもできよう。しかし子どもたちは、自分が見たこと感じたことをそのまま口にしている。だからこそ、作品のタイトルが示すように、彼らの言葉から、チェチェンの真実が、そしてチェチェンの人びとの苦しみが、くっきりと浮かび上がってくる。

 子どもたちの声は、あるいは受け入れ難いかもしれない。だが、私たちが彼らの声を受け止めず、チェチェンの悲劇を黙認し続ける限り、この子たちの未来に希望は見えてこない。

★ いま世界で(33)

チェチェン 離散した家族 空手家の夢

                       林 克明  2004年8月20日掲載

 パーン、パーン、……。サンドバッグを蹴り上げる音がいつまでも止まない。黒地に赤線が入った寸足らずのトレーニングパンツ。激しい息遣いの男は、黙々と蹴りの練習をする。

 アゼルバイジャンの首都バクーにある極真会館アゼルバイジャン道場。ロシアから亡命した空手家、オスマン・アフメードフの1年365日続く練習の風景である。

 彼の故郷チェチェンは、およそ400年前からロシアの攻撃と支配を受け続けてきた。1991年に独立を宣言したが、94年にロシア軍がチェチェンに侵攻。現在も殺戮(さつりく)が続いている。

 オスマンが家族とともにバクーに逃れたのは1999年秋。しかし、住む場所も仕事もままならず、母と10歳の娘、8歳の息子をロシア連邦内のダゲスタンに住む知人宅へあずけざるを得なくなった。ロシア領内へ戻れないオスマンは1人バクーに残り、一家は離散した。

 半年後に一度だけ、息子の声を電話で聞いた。しかし「息子はパパ、パパと言って泣くばかり。後は何も話せなかった」と彼は言う。

 チェチェンでの戦争では、これまでに約7000人の子どもが体に障害を負い、1万6千人が孤児になった。またロシアの人権団体「メモリアル」によれば、チェチェンの隣国イングーシに逃げた難民の30%にあたる約7万人の子どもたちは、きちんとした保護を受けられず、見捨てられた状態にある。

 オスマンは、ある決意をした。それは、日本で生まれた格闘技「K-1」に出場して金を稼ぎ、家族をバクーに呼び寄せることだ。そして将来は、武道教育を通して、戦争で癒しがたい傷を受けた子どもたちや少年たちを助け、一人前の大人に育てたいという夢がある。「辛い思いをしているのは私の子どもだけじゃない。目の前で親兄弟を殺され、まともに食べられず、教育もない膨大な子どもたちがいる」

 かつて空手のユーラシア選手権で優勝し、チェチェン武道家連盟の会長を務めたこともあるオスマンだが、既に35歳。普通なら第一線から引退する年齢だ。しかし、金もなく、難民である彼は他に道がないという。

 400年にわたるロシアによる支配で、チェチェンの住民の半数以上が殺されたことが2度あり、いま進行中の戦争は3度目の大規模殺戮にあたる。その過酷な歴史は一方で、「男は自分と家族を守るためにあらゆることを身につけなければならない」という考えを広く社会に浸透させた。チェチェンの男たちの多くが格闘技を身につけるのは、単に身を守るためだけでなく、それが生きていくための精神的な支えでもあるからだ。

 オスマンの夢を実現すべく、日本側でも受け入れ準備が始まったが、大きな壁にぶつかっている。亡命中に彼のパスポートが切れてしまったのだ。再発行を受けるには、ロシア領内に戻らなくてはならないが、それh極めて危険である。

 年齢を考えればすぐにでも日本に来たいところだが、その見通しは立っていない。しかしオスマンは、そんなことにかまわず、ひたすらトレーニングと日本語の勉強を続けている。私がこの原稿を書いているいま午前11時、バクーは朝の7時。彼は既に外を走っているはずだ。

 

 

★ いま世界で(20)

チェチェン 国家の過ち、身をみって正す

                       林 克明  2004年5月21日掲載

 

 イラクで日本人が人質にされたニュースを聞いた瞬間、ビクトル・ポプコフというロシア人を思い出した。
 長い白髪に白ひげ、床まで届く紺の衣装を身に付けて、紛争地のチェチェンで宗教者として人道援助活動をしていた人物だ。ロシア正教の古儀式派の伝統を重んじる彼の姿は、一度見たら忘れられない。
 帝政時代から、ロシアはチェチェンを侵略し続け、現在もチェチェン人をテロリストと決め付けて、ジェノサイド(大量虐殺)を行っている。ここ十年間の犠牲者は二十万人に上るという推計もある。
 そんなチェチェンに入り、虐殺と飢えに苦しむチェチェン民衆を救うため、ロシア人のビクトルは、援助物資を持っては村を回り、人々を励ましていたのである。政府に逆らい紛争地に行き、政府からテロリスト擁護者と見られ、少なからぬロシア人に「裏切り者」と断罪された。
 二〇〇〇年春に来日した彼が、記者会見で述べた言葉が忘れられない。
 「絶滅に瀕した動物を助ける運動が豊かな国の人々の間で活発です。でも、チェチェン人が地球上から消されかかっているのに声をあげるひとはいない」
 「皆さんの中には、平和主義を貫こうという人格者がいらっしゃるかもしれない。でも、私がチェチェン人だったら、銃を手にしないという自信がありません」
 徹底した平和主義者である彼にそこまで言わせたのは、チェチェンの人々が置かれた厳しい現実である。ロシア軍・警察は、次から次へとチェチェン人を捕らえて拷問専用施設に送り、大量の人間をð`消してðaいる。ビクトルは、それを間近に見ていた。
 二〇〇一年四月十八日、医薬品をチェチェンの村に届けようとしていたビクトルは、ロシア兵に至近距離から発砲され、同年八月二日に亡くなった。享年五十歳。
 目覚めてしまった者、現実を見てしまった者は、やむにやまれず行動に出てしまう。彼と一緒に行動していたこともある私には、その気持ちがわかる。ビクトルの決して長くなかった人生は、そういう人がもつ苦しみと感動に充ちていたのだと私は思う。
 活動する場所も、民族も、宗教も違うが、イラクのストリートチルドレンの世話をして「母親」と慕われ、人質になった高遠菜穂子さんの姿とビクトルが、私には重なって見える。
 私は、二人を誇りに思う。国家の犯す過ちを、個人が身をもって正しているからである。どんな紛争地にも、必ずこのような人たちがいるのだ。
 国家権力は彼らを嫌うだろうが、これとは別に、命の危険を冒して格闘する個人を眺める世間という「観客」の存在がある。彼らは、ある種の格闘技ファンにも似ている。快適なリビングでビール片手に格闘技をテレビ観戦し、「なんだアイツ、だらしねえな、何やってんだよ」と罵倒する人たち。
 だったら、お前がリングに上がってみろよ。

いま世界で(7)

アゼルバイジャン・バクー 

                         林克明 2004年2月20日掲載

「奴らはペストだ。殲滅しなければならない」

 ロシアのプーチン大統領は、26日に起きたモスクワの地下鉄爆撃の直後、犯人がチェチェン独立派だと断定し、こう発言した。救出作業も現場検証も終わらないのに犯人が分かるという。

 英国に亡命したリトビネンコ元KGB(旧ソ連国家保安委員会)大佐は「ロシア特務機関の犯行の可能性」を指摘した。だが、真実がどうであれ、テロが起きるたびにロシア当局はチェチェンへの迫害を強化し、それを世論も支持してきた。同じことがまた繰り返されるのか。

 16世紀末からロシアはチェチェン侵略を開始し、住民の半数をころして1861年に併合した。その後もチェチェン人は何度も抵抗し、ロシアはジェノサイド(大量虐殺)で応じた。1994年に始まった現在の戦争も、同じ流れのなかにある。犠牲者は推定17万―20万人。現在、チェチェンの住民は80万人だが、弾圧を恐れた人々が世界中に亡命し続けている。アゼルバイジャンのバクー市も避難先のひとつ。地下鉄テロの発生直前まで、私はここで難民たちと過ごしていた。

 寒風が吹き荒れる一月下旬のある日、平屋の小さな家が密集する地区にあるライーサ・ハムザーエヴァ(46)の家を訪ねた。二部屋に娘と住み、家賃を払えずに逃げ込んできた難民も一緒にいた。太陽の光は全く差し込まず、裸電球にベッド、赤いちいさな電気ストーブが部屋の隅に置かれている。

 パンとサバの缶詰をご馳走になりながら、彼女の話を聞いた。ライーサは、チェチェンのロズヌイの市場で肉を売って戦禍の中を生き延びていたが、991021日にロシア軍は市場をミサイルで攻撃。彼女の左腕はちぎれ、左目も失明した。病院の反地下で療養していた彼女は、両親を殺された4人の子どもたちと出会う。同年1029日、避難民の列にロシア空軍が低空飛行で爆撃した。このとき車内で焼け死んだ夫婦の子が、ライーサが引き取った娘ザリーナだった。

 「左目を失って片腕も失った私には、4人の子を育てるのは無理。しかたなく当時10歳だった長女だけを引き取ったの。」

 そのザリーナも今は15歳。障害者の義母のために家事を切り盛りしていている。「この子がいなかったら私は何もできないわ」とライーサは言う。

 彼女の案内でバクー市内の難民を訪ねると、重度身体障害者の多さに驚かされた。約86百人に難民中、少なくとも5百人が手足の切断、失明、人口肛門を要するほどの重度障害者だ。

 ライーサは、近く障害者団体のサイトを立ち上げて世界中に訴えるという。そして一番の望は「ザリーナの弟と妹を探しにチェチェンに戻る」ことだ。

 だが、チェチェン独立を求める人々をプーチン大統領が「ペスト」と呼ぶ状況が続く限り、その望みは叶いそうにない。