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★ いま世界で(41) パレスチナ 自由を知らない子どもたち 古居みずえ 2004年10月15日掲載 「銃弾はその窓から入ってきて、タンスを貫通し、壁で止まりました。この部屋には、写真や置物や壁飾りがたくさんあって、大切にしてきました。でも今、この部屋には何もありません」 ダラールはガザ地区(パレスチナ自治区)南部ラファの難民キャンプに住む十四歳の女の子だ。彼女の家はエジプトとの国境に近く、近隣のほとんどの家はすでに引っ越した。ダラールの家もいつイスラエル軍に壊されるかわからないため、家具ばかりでなく窓ガラスやドアもすでに取り外して親戚の家などに運んであり、代わりにカーテンが張り巡らされているだけだった。 家の窓からはイスラエル軍の監視塔が見え、家の中のあちこちには銃弾の痕(あと)が見える。 「学校へ通うときも、もう二度と家に帰れないのではなかと不安になります。監視塔から撃たれるのがこわいのです」とダラールは話す。 今年の五月には、パレスチナ人がイスラエル軍の車輛を爆破し、イスラエル軍兵士が死亡したのをきっかけに、イスラエル軍の侵攻があり、二週間のあいだに六十人以上のパレスチナ人が死亡。二百軒あまりの家が破壊された。 その後、何度かの侵攻があり、八月三日にはダラールの家の近くまでイスラエル軍の戦車が攻め込んできた。道路は封鎖され、二日間、ダラールは家の外へは一歩も出られない状態だった。 イスラエル軍は七軒の家を破壊し、四日の夜に撤退した。その翌朝、ダラールを訪ねると、彼女の家の前の一帯は土に覆われ、平地になっていた。数日前まであった家がなくなっていたのだ。壊された家の前にはその家の女性が、赤ん坊を抱き、途方に暮れて立っていた。 そのときの様子をダラールは「二日間、私たちはまったく眠れませんでした。ずっと戦車の動きを見ていたのです。この部屋にも砲弾が当たりました。もし私たちが他の部屋に移っていなければ、命がなかったかもしれません」と話す。 他にも自由に出歩けないダラールの唯一の楽しみは詩を作ることだ。詩を作ることで少し気持ちが落ち着くという。ダラールは今の心情を詩に託す。 自由はどこにあるの? それは空? 空港は壊されました。 自由、それは海にあるの? 海は包囲されています。 自由、それは土地にあるの? 土地は壁で囲まれています。 世界は自由を楽しんでいます。 でも私たち、子どもたちは自由を知らないのです。 二〇〇四年十月、イスラエル軍はガザ地区に侵攻し、ラファでは十三歳の少女が撃たれて亡くなった。子どもたちの悲劇は今日も続いている。 ★ いま世界で(28) ガザ地区 戦車・銃撃…怯えず生きたい 古居みずえ 2004年7月16日掲載 ダダダーッ、ダダダーッ、ドドドドッ、ドドドドッと毎日のように銃声が響くガザ地区 (パレスチナ自治区)南部ラファ。二〇〇四年五月、このラファでは、ほぼ二週間のあいだに六十三人のパレスチナ人が亡くなった。五月十二日、イスラエル軍の車両がパレスチナ人によって爆破され、五人のイスラエル軍兵士が死亡したことが発端だった。 イスラエル軍はその直後から武装派掃討作戦を展開。エジプト国境にあるラファ難民キャンプを攻撃し、およそ百軒の家屋を破壊した。十七日にはラファ中心部から少し離れたタル・アッスルタン地区を包囲し、住民に一週間の外出禁止令を敷いた。 病院に駆けつけると、次から次へと負傷者が運ばれてくる。その中には多くの子どもたちが含まれていた。 タル・アッスルタン地区に住む姉アスマ(16)と弟のアハマド(13)はハトのえさをやるために屋上にあがり、二人とも頭を撃たれた。二人の母親は「アスマが先に撃たれ、彼女が撃たれたのを私に知らせようとしたアハマドは階段の最上部で撃たれた」と話す。 イスラエル軍による封鎖のために、救急車はなかなか近寄れなかった。二人とも五時間もの長いあいだ、血を流し続けた。 アスマの遺体は病院の冷蔵庫へ入れられ、アハマドの遺体は病院が満員のために、他の犠牲者とともに農家の冷蔵庫で保存された。母親は埋葬される前にひと目でも子どもたちに会いたいと願ったが、封鎖は解かれず、子どもたちは両親にも見守られることなく、墓地に葬られた。 ラファ難民キャンプに住むマフムド(12)は、イスラエル軍の車両が爆破されたとき、その破片が家に落ち、家族とともに必死で避難した。まもなくイスラエル軍の攻撃が始まり、マフムドたちはタル・アッスルタン地区の叔母の家に逃げた。そこで自分の家が壊されたことを知った。 マフムドは現在、ラファ市内にある国連の学校へ避難している。ここには家を失いどこにも行けない家族百五十人が住んでいる。 「夜、何度も目覚め、よく眠ることができない。いつも、イスラエル軍がきて戦車で僕を殺す夢を見る。目覚めると父親も眠れないでいる」「僕は道を歩いている時、いつも恐怖がある。いつか撃たれるのではと怯(おび)えている」 マフムドのすぐ上の兄モハマドは、まだ十四歳なのに頭の毛に白髪がまじる。 戦車や銃撃に怯えることなく生きている他国の子どもたちのように生きること、それがマフムドの願いだ。 ★ いま世界で(15) 古居みずえ 2004年4月16日掲載 二〇〇三年三月二十日にアメリカがイラクへの攻撃を開始してから一年がたつ。イラク情勢の泥沼化を伝えるニュースの陰で、運命の変わった人たちがいる。イスラエル建国の一九四八年に難民としてイラクへ逃れてきたパレスチナ難民たちだ。 ★いま世界で(2) 分離フェンス「まるで刑務所」 パレスチナ・ジャユース 古居みずえ 2004年1月16日掲載 「私はゲートで待つことに疲れてしまった。兵士は気が向いたときにしかゲートを開けてくれない」と話すのはヨルダン川西岸ジャユース村に住むパレスチナ人、ウンム・アマル一家は、昨年7月にイスラエルによる分離フェンスができたことで、フェンスの「外側」に残されてしまった。家族は学校、買い物、病院などすべての日常に支障をきたしている。 イスラエルがパレスチナ自治区のヨルダン川西岸地区とイスラエルとの間に建設中の分離フェンスは、ヨルダン川西岸北端からエルサレムを通ってヘブロンにいたるまでの、約350キロ。現在、北西部の120キロの第一期工事が完成している。 「パレスチナ人による自爆攻撃の防止」を目的とする分離フェンスは、イスラエルとの境界線である「グリーンライン」から離れてヨルダン川西岸に大きく食い込み、パレスチナ人の生活圏を分断している。 ウンム・アマル一家は牧畜業で生計をたて、両親と3人の息子、二人の娘の7人家族だ。3人の息子と1人の娘を学校まで連れて行く。 フェンスの内側になった学校へ行くためには分離フェンスを通るしか方法はない。ゲートを通るとき、イスラエル軍兵士は身分証明書を調べ、ときには子どもたちの学校鞄まで検査する。 ゲートが開くのは日に3回、一応時間は決まっているが、それより一時間も二時間も送れることが多々ある。そのために子どもたちは朝の始業時間に間に合わず、一時限、二時限遅れて学校へ行く。 長男と次男は毎日のように学校に遅れるので、授業がどこまで進んでいるかわからない。長男は進級に失敗し、次男と机を並べて勉強している。昨年は300日のうち、80日しか出席できなかった。フェンス建設時には45日間学校へ行けなかった。 「娘が病気になったことがあった。病院へ連れて行こうとしたが、兵士がゲートを開けてくれなかった。私たちはまるで刑務所にいるようだ」とウンム・アマルはいう。 彼女が一番恐れるのは、ゲートが永遠に開かなくなるときだ。イスラエルはパレスチナ自治政府が過激派を解体しなければ、一方的にロードマップ(米国、イスラエル、パレスチナ自治政府の三首脳が昨年6月に合意したパレスチナ紛争解決のための和平案)を放棄し、占領地の分離を実施すると、警告している。 ウンム・アマル一家にとってさらに不安な日は近づいている。 |