★ いま世界で(42)

イラク、パレスチナ 「テロとの戦争」という蛮行

                              土井敏邦 2004年10月22日掲載

 今年春に起こった米軍によるイラクのファルージャ侵攻と、イスラエル軍によるガザ地区(パレスチナ自治区)ラファ侵攻の双方の現場に、驚くほど共通する点がある。一つは、進行した軍の狙撃兵が「動くものは何でも撃つ」ことだ。銃の照準眼鏡で相手が子どもや女性であることを判別できていても、まるで猟を楽しむかのように撃ち殺している。そしてもう一つは、救急車の救急活動の妨害だ。ファルージャでは救急車の運転手が射殺され、私が確認しただけでも二台の救急車が砲撃で丸焼けにされていた。

 二週間で五十八人の住民が殺害され、五百六十一件の家屋が壊されて三千三百五十二人がホームレスになった(「パレスチナ人権センター」統計)五月のラファ大侵攻でも、イスラエル軍によって救急車が攻撃され、遺体の運搬や負傷者の救助が妨害されたという証言が医療関係者から複数出てきた。その象徴的な事件が救急車の“生き埋め”事件だ。

 戦車の銃撃によって負傷した三人の家族を救出するために一台の救急車が現場に急行した。しかし、目的の家の手前で戦車が救急車の前に立ちはだかり、銃撃し始めた。運転手は救急車を後退させようとしたが、後方でブルドーザーが土砂を積み、退路を塞(ふさ)いだ。前方にも他のブルドーザーが土砂を積み上げ、さらに両側から土砂を押し付けてきた。運転手は生き埋めにされようとしていることを悟り、携帯電話で必死に病院や赤十字国際委員会に救援を求めた。

 「呼吸はできたのですが、抑えがたい恐怖に襲われました。銃弾や砲弾によってではなく、土砂で埋められることによって、ゆっくり死に向かっている気持ちでしたから」と運転手が振り返る。赤十字の介入などによって、四時間後やっと土砂が取り除かれ、運転手と二人の救急隊員は現場から脱出した。しかし、その救急車は破損が激しく二度と使えなくなった。

 この運転手は二日前にもイスラエル軍に救急車の移動を阻止された。殺害された住民の遺体を収容するため、イスラエル軍に封鎖された地区へ他の二台の救急車と共に出動したときだ。突然、戦車が道路を塞ぎ、上空の武装ヘリコプターが救急車に向かって銃撃を始めた。三台の救急車は国連の診療所に避難したが、まもなくここも戦車に包囲され銃撃された。

 十四時間後、赤十字などの介入で運転手ら十二人はようやく救出されることになったが、イスラエル軍は三台の救急車で出ることを認めず、病院が手配した別の車で脱出せざるをえなかった。三台の救急車はイスラエル軍が撤退するまで使えず、医療活動に大きな支障が出た。

 「テロとの戦争」「テロリストの駆逐」ー。その大義名分があれば、進行した軍隊が現地の住民に対してどんな非人道的な蛮行、殺戮(さつりく)を行なっても免罪されてしまうかのような空気が、いま世界を覆っている。

★ いま世界で(29)

イラク・ファルージャ 底辺の人々 声にならぬ叫び

                              土井敏邦 2004年7月23日掲載

 今年四月、イラクのファルージャは一ヶ月近く米軍に包囲・攻撃され、七百人を超える使者と千五百人近い負傷者を出した。私がその現場に入ったのは、包囲が解かれて一週間が過ぎた五月十一日だった。それでも市内の至る所に攻撃の生々しい爪痕(つめあと)が残っていた。

 ミサイル攻撃で家族三十一人が屋根の瓦礫(がれき)の下敷きになった現場には、頭皮のついた髪、先切れミイラ化した子どもの足が残っていた。爆撃で十三人が殺害された農家の壁には、バラバラになった二歳の子どもの肉片がこびりついていた。頭部に爆弾の破片を受けた十五歳の少年は、瞳以外まったく全身が動かない状態のまま横たわっていた。十二歳の少年は米兵に狙撃され、睾丸(こうがん)とペニスを失っていた。

 私がバグダットから送ったその映像と活字は、「スクープ」として日本のテレビや雑誌で伝えられた。私はジャーナリストとしての本分をいくらか果たせたような気がした。

 しかし帰国後、「ファルージャ2004年4月」というルポを読んで愕然(がくぜん)とした。それは、まさに米軍の猛攻撃の中、ファルージャの現場の真っただ中に身を置いて凄まじい現場を目撃し、激しく銃弾が飛び交う中、負傷者の救援と遺体の回収のために奔走した英国人平和活動家たちの記録だった。

 首を撃ち抜かれ手の施しようもない少女の首からどくどくと流れる血、射抜かれた心臓が飛び出し、胸が空洞となったまま路上に放置された老人の遺体、診断所の中庭に積み上げられた死体の列から漂う死臭、激しい銃撃の中、救いを求め哀願する老婆の恐怖に引きつった顔…。

 自分が「スクープ」だと思って伝えてきた内容は、現場に立ち会った者たちの記録に比べれば、“蛇の抜け殻”のようなものだった。“抜け殻”の様子を詳細に伝えることで、私はあたかも“蛇”つまり「民間人虐殺」そのものの姿を伝えたような気になっていたのだ。

 ジャーナリストの自分がなぜ、平和活動家が入れたその現場にいなかったのか。その現場はまさに、イラク戦争の本質、米国のイラク占領の体質を凝縮し露呈した場所だったはずなのに。

 命懸けでその場に立ち会い、貴重な記録を残した平和活動家に畏敬の念と嫉妬を抱くと同時に、ジャーナリストでありながら、「攻撃下のファルージャは危険で入れない」と思い込み、しり込みしていた自分を恥じた。

 過酷な状況の中で呻吟(しんぎん)する底辺の人々の、声にならない“叫び声”に耳を澄まし、伝えていくことーそれこそがジャーナリストとしての自分の役割だと思っている。その民衆のうめき声を聞き取れる距離に自分の身を置ききれないなら、ジャーナリストとして私は失格である。

★ いま世界で(16) 

イラク・バグダッド 刻まれた憎しみ

                             土井敏邦 2004年4月23日掲載

 八歳の少年ムスタファの左脚太腿に爆弾の破片が貫通し重傷を負ったのはバグダッドが陥落する三日前の昨年四月六日だった。傍らにいた叔父は破片で頭部を割られ即死した。
 市内の病院に入院中のムスタファに出会ったのは負傷して四十日が経った頃。左脚は筋肉、神経、血管などが切断され、患部より下が壊疽(えそ)する可能性があり、毒素が全身に回ると生命の危険もあった。泊まりこみで看病を続けていた母親(27)は疲労困憊した表情で「私はもうくたくたです。息子が死んだら、私の人生は終わってしまいます」と言った。
 ムスタファ少年の現状を日本のテレビ番組で報道した直後、百通を超えるメールが殺到した。「私にも同じ歳の子どもがいます。早くなんとかしてあげてください! 普通の母親ができる範囲なのでわずかな支援ですが、一日も早く彼に生きる希望を与えてほしい」と書いたのは熊本県の三十六歳の母親だった。視聴者の声に押されるように立ち上げた基金には二百万円余が寄せられた。
 八月、高い医療技術で知られる隣国ヨルダンの病院で治療を受けることが決まった。パスポートのないムスタファと父親エマド(33)は、出国のために米軍占領当局、国連、国際赤十字社などに嘆願して回った。だが八方塞がり。父親が最後に選んだ道は偽造パスポートも買う手段だった。
 千キロ近い車の旅に耐えた病身のムスタファは首都アンマンに到着した翌日、手術を受けることになった。しかしいざ麻酔注射を打つ段になって、泣き叫び暴れ出した。これまで八回の手術に耐えてきた八歳の少年にとって、手術の恐怖と痛みは深い心の傷となっていたのだ。やっと眠りについた息子を手術室に送り出し、父親エマドは控え室で独り泣いた。あれほど嫌がる息子に何度も手術を受けさせなければならない不憫(ふびん)さからだった。
 治療によって脚切断の危機は脱した。しかし損傷した神経の回復は難しく、脚は麻痺したままになった。一カ月の治療を終え帰国したムスタファは、その後も炎症をおこした骨の一部を切除するため、さらに二度の手術を受けた。
 今年二月、私が半年ぶりに訪ねたとき、傷口はほぼ完治し、歩くためのリハビリが始まっていた。しかし病院で脚の神経の状態を検査しようとしたとき、注射針を見たとたん、ムスタファはまた暴れ出し、病室を飛び出してしまった。心の傷は癒えてはいなかった。自分を傷つけ、叔父を殺した米軍への憎しみもムスタファの心に深く刻まれている。
 自宅で小さな兵士のゴム人形で遊ぶムスタファを目撃した。半分はイラク兵、あと半分は米兵だという。イラク兵は米兵を次々と撃ち殺し、最後には倒れた米兵を車で押しつぶしていく。米軍への憎しみの表現だった。
 二月中旬、新学期が始まった。ムスタファは五百メートルほど離れた学校へ松葉杖をついて自分の脚で通えるまでに回復した。しかし、この夏にはまた、神経回復の手術を受けるためヨルダンの病院へ向かわなければならない。バグダッド陥落から一年。しかし戦争で傷ついた人々の闘いはまだ続いている。
   (どい・としくに ジャーナリスト)

★いま世界で(3)

「占領」住民の生活と意思圧殺 パレスチナ・ラファ(ガザ地区)

                    土井敏邦 2004年1月23日掲載

 エジプトとの国境に接するガザ地区最南端の町ラファ。人口約14万人のこの町で毎日のようにパレスチナ人の民家がイスラエル軍によって破壊されている。市役所職員サーレの家が突然、軍のブルドーザーで破壊されたのは、2001年の3月だった。「家が国境に近い」という以外、サーレには破壊された理由が当たらない。

 幼い二人の子どもたちの将来のためにと、家崩壊の直後、サーレは自分の土地を売り、5万ドルの費用をかけて他の地区に家を再建した。だがその年の10月、再びイスラエル軍が戦車とブルドーザーでやってきてその新居まで破壊してしまった。移り住んでまだ7ヶ月だった。家の周辺からイスラエル軍への攻撃があったわけでも、サーレや家族が武装グループに関わっていたわけでもない。

「私は何も悪いことはしていません。なぜ家を壊すのですか。私の中にあるのは怒り、そして悲しさです。家を新築するのにすべての金を注いだのに、それを全部失ってしまいました。誰も助けてはくれません。私の将来はすべて破壊されてしまいました。」

なぜ一般市民の家を破壊するのか―。イスラエル軍のスポークスマン、フェンゴール少佐は「パレスチナ人武装集団が国境近くの民家からエジプト側にトンネルを掘り、武器などを密輸している。また民家をイスラエル軍攻撃の拠点にしている」と、家屋破壊の理由を説明した。

しかし、ガザ地区の人権弁護士ラジ・スラーニは「イスラエル軍は国境とパレスチナ人居住区の間に緩衝地帯を作ろうとしている」と反論する。「つまり近くにあるユダヤ人入植地とイスラエル領土を国境沿いに結びつけ、その緩衝地帯によってガザ地区をエジプトから孤立させ、エジプトとガザ地区の境界ではなく、エジプトとイスラエルの国境にしてしまおうとしている」というのだ。

イラク報道にかくれて日本のメディアではほとんど伝えられていないが、イスラエル軍の侵攻と家屋破壊が続いている。昨年10月には二日間で170戸の家が壊され、3人の小どもを含む8人の住民が殺害された。さらに2千人を超える住民が住処を失いホームレスになっている。

イスラエルの“占領”は家屋破壊のように見えやすい事象だけではない。封鎖により社会と経済を窒息状態に追い込み、人々をアパルトヘイト状況に押し込め、真綿で首を絞めるようにパレスチナ人住民の生活と意志を日々、圧殺していく。その怒りが「自爆テロ」として噴出するとき、世界はその残忍さに眉をひそめ声高に非難する。たが、彼らをそこまで追い込んだ“占領”にめを向けようとはしない。